雑誌の世界に足を突っ込みだしたわけだが、具体的に何をどうすればいいのかさっぱり分からない。
ということで、実際に雑誌を制作している人たちに当たってみる事にした。
まず、本ゼミの上級生である近藤氏の人脈を頼りに、東大を拠点にかつて『東大批評』という文芸批評誌を制作していた発行人前田氏や、文学フリマと言う文芸系のネットワークで『新大学』という文芸批評誌を発行を行っている松平氏に会った。また、近藤氏の所属する政治系の雑誌『情況』や、文芸批評同人誌ながらジュンク堂新宿店に販路を拡大している業界第2位の『界遊』の編集会議などにも参加させていただいた。
これらの世界に足を踏み入れたばかりで、自分には全く見通しがつかないのだが、それでもこの世界は広そうで案外狭いものだ。
東大批評の前田氏から、東浩紀を中心とする現在の文芸批評業界の状況を教えていただいたのだが、そこで出てきた人名やキーワードは、新大学や界遊の紙面や会議上にも何度も顔を出す事となった。界遊の編集長は、新大学や東大批評の発行人とも非常に面識があるようだった。
もっとも、現在色々当たっている人々が文芸批評系のしかも同人の人々ばかりだから、それは当然といえば当然だ。実際、『情況』は僕の当たったほかの雑誌とは違い、政治系で商業誌だったので文芸系の人物やキーワードとはほぼ無縁であった。
ここで、ふと思い至る。
何故僕は、文芸雑誌の、それも同人系の雑誌人にばかり当たってるのだろうか?
そもそも雑誌というのはもっと色々なジャンルがあって、政治や経済や文化やスポーツや漫画などなど多岐に渡っているはずだ。だからこその「雑」誌なのだが。そして、実際の出版業界というものは岩波書店や講談社、小学館などといった大手を始めとする無数の出版社が存在するわけで、同人なんてむしろ少数派に過ぎない。
何故同人ばかりなのか、という答えは割と簡単に出てきた。大学生がいきなり商業誌の出版社に「雑誌について教えてくれ」などと出向いても、門前払いされるのがオチであるし、そもそも一介の大学生にそんな人脈はない。それよりも大学生で雑誌が好きな人間が集まっている同人雑誌の方が、同じ興味のある人間を受け入れてくれるし、大学生でも人脈も築ける。
では、文芸雑誌ばかりなのは何故かという自問にはどう自答すべきか。
これに関する考察は、「僕の目指す雑誌とはどうあるべきか」を考える上で、僕にとっては興味深いものとなった。
突然だが、現在日本で最も高い知名度を誇り、政治的・社会的・文化的影響力を誇る雑誌といえば、1923(大正12)年創刊の『文藝春秋』である。本ゼミにその名前を冠する立花隆も、この誌面で『角栄研究』を掲載して、時の田中角栄政権を転覆させたものである。この文芸春秋は、現在も芥川賞や直木賞など数多くの権威ある文学賞を主催し、そもそもその誌名が示すように、文芸を当初の(そして現在も)主軸に掲げている。
何故、文芸誌が文芸以外への影響力をここまで強めたか。それは、文芸(小説・詩歌・批評・思想評論etc.)とは文字で書かれた虚構であり、また宗教や科学や歴史や伝統や人間の内面まで人間社会のありとあらゆるジャンルをその対象として網羅しており、故に実社会に束縛されずに実社会の全てへ関わることを許されるからだ。
筆を片手に実社会の全ての分野に関わる。これは、教養人の理想である。そして、立花ゼミが目指していた事じゃないか。
僕がこのゼミで雑誌を作ろうと企む原動力のようなものに、ようやく自分で根拠らしいものをつけられた気がする。
何でも見てやろう、と開高健の名言を、嘯いてみた。