暗闇ぶらんこ

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外苑前のギャラリーで行われていた「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」というイベントに、ゼミの先輩のおすすめで行ってきた。

これは、真っ暗闇のなかを、聴覚障害者のアテンドの方に引率していただき、5人前後のメンバーで90分間散歩する、というイベントだ。暗闇のなかには、さまざまなシーンが用意されている。

 

 

 幼いころ、目をつぶってぶらんこに乗るのが好きだった。

 ぶらんこに乗って、足を地面から離して漕ぐと、私は空の上をひとりゆらゆらと浮かんでいるような心地になる。地面は、足を伸ばしたら届きそうなくらい、近くにあるかもしれない。目を開けたとたん気絶してしまいそうなくらい、果てしなく下方にあるかもしれない。目をつぶっている限り、それはどちらでも同じことなのだった。すごく自由な気分になれた。

 

 純粋な暗闇(純粋な、というのは、いつまで経っても目が慣れて辺りが見えてくることのない、という意味)のなかで、ぶらんこを見つけて座ってみたとき、そのときの感覚を思い出した。

 

 一寸先も見えないことが、こんなにも楽しく、自由なものであること。

 

 

 暗闇のなかでは、時間からさえも、自由になれそうな気がした。暗闇のなかでの時間の経過というのは、目をつぶってぶらんこに乗ったときの地面との距離のようなもので、時間がたくさん経過しているのかあまり経過していないのかは、自分の思いこみに委ねていいもののように思った。

それでも、かなり確実な時間の感覚から離れられずにいる、世俗的な自分に気付いた出来事があった。

 暗闇に入ってからしばらく経ったとき、私はふと、

「今、暗闇に入ってからどれくらいの時間が経ったんだろう」

と呟いた。

「いいことに気付いたね」

アテンドの方は言った。

「どのくらいだと思う?」

「30分くらいでしょうか」

私は思ったとおりに言ってみた。

「今、ちょうど26分」

 アテンドの方は微笑んだ。――違う、微笑んでいたかなんてわからないはず。でも微笑んだ、と私は感じた。――

 他のメンバーが10分とか15分とか言っているなかで、私の予想は、ほぼ当たっていたのだった。

 

 

 もし、世界が真っ暗闇だったら。

 ――もし目が見えなくなったら、ということはきっと別の議論を要するので、ここでは、もし世界が真っ暗闇になったら、ということを、無責任に考えてみただけだ――

 人は、どんな恋をするのだろう。

 誰かの目の輝きとか、たたずまいとか、笑顔を感じ取ることはできない。

 それでも、話すことや、声や、考え方や、笑い声や、匂いや、肌の感触――そんな、視覚では捉えられないいろいろなものを、好きになるのだろうか。

 たとえば、あの真っ暗な空間で、私の隣に大好きな人がいたら、私は自分の髪の乱れも、体型も、顔かたちも気にせずに、時間さえ忘れて、ただそこにふたりが在るという事実に身をまかせるだろう。

 ふたりの距離がどのくらい離れているのかは、暗いから、わからない。

 

 世界に一度真っ暗な闇が下りて、いつ光が差しこむのかもわからないまま、みんなを抱きすくめてしまえばいい。

 暗闇は、そんな夢心地の空想で私を包み込んだ。

 

 

 光が見えない。どこに道があるのかわからない。出口が見つからない。

それは絶望のようで、その反対かもしれないと思った。

 

 暗闇を散歩しながら、私たちは不安を抱きながらも、始終わくわくしていた。植物の匂いに深呼吸し、水辺の涼しさにため息を漏らし、暗闇での乾杯に笑い声を上げた。

 地面すれすれを揺れているのか、果てしない大空を飛んでいるのか、絶対にわからないまま、ぶらんこに乗っているように。

 そう考えてみると、暗闇は、私が生きているこの世界そのものみたいだ。

 この先の展望が見えないこと、突破口が開けないこと、憧れとの距離が縮まらないことに、いつも悶々としていたけれど、それは、素敵なものが姿を隠して至るところに潜んでいるにちがいないという、果てしなく自由なときめきに満ちた世界にいるということかもしれない。

 

 蛍光灯の光の中では忘れてしまうあの感覚を、忘れないようにしよう。

 

 

 

暗闇を出ると、そこは外苑前の明るい夜だった。

 

 

 

(c) Ran Oishi

(c) Ran Oishi

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