Dialog in the dark.

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Have you seen the unseen?

 

私の答えは、Noであった。

 

外苑前で行われている「Dialog in the dark」という企画に参加してきた。

 

私には、今は割と克服されてきたものの、暗闇への恐怖があった。

 

これは、幼少期に、父親に、

「早く寝ないと、あの暗い場所からお化けがくるぞ。」

とすり込まれたことが大きく関与しているようだ。

 

最初の闇へのイメージを書き出した時も、「お化け、トイレ、時計の音」といった、寝る前のことと関係している事柄が多かった。

 

また、僕にとって、闇は、

「全であり無」

「始まりであり終わり」

「自由であり束縛」

のような、矛盾達が闊歩している空間に思われた。

 

そんなことを頭の片隅に置きながら、闇へと足を突っ込んだ。

 

完全な真っ暗闇…

 

眼を閉じたとき、アイマスクをしたときとも違う。

 

主体的ではない闇。

 

眼鏡をとっても、まぶたを閉じても変化のない逃げ道のない、闇。

 

小股で、かがんで、一歩一歩確実に仲間の方へ…

闇の無限の可能性に自己の肢体の稼働可能性を奪われた。

 

すぐ上に、天井があるような、空が広がっているような不思議な感覚。

 

「ここでひとり取り残されたら生きていけない…」

 

声を出さなきゃ、自分は存在しないことになる世界。

誰かと体がぶつかり、名前を呼び合って、ホッとした。

声だけじゃなく、人がいるんだ。

気付くととても素直が自分がいた。

自分が普段嫌悪している自分は、闇のどこかへと飛んでいってしまったようだ。

その素直さは、自分も優しくして欲しいから?

そんな計算を、いつもはあくせくしている私のそろばんははじかなかった。

 

僕は、暗闇の中でも色と形を見た。

それは限りなく闇に近い色であり、周りに溶け込むような輪郭線であった。

もちろん眼では見えていない。

 

口で、鼻で、耳で、手で、見ていた。

 

限られた情報から、自分の生きてきた経験を通じて構築された、自分だけの視界。

 

面白い話だ。

「子供は、闇の中でもはしゃぎ回っている。水に落っこちたり、何かにぶつかったり、大人ではしないことをする。大人になる中で、暗闇で歩くことは、不安なことだと決めてしまうんだろう。」

 

きっと普段でも、それぞれの生きてきた道で、見えてる世界は違うんだろう。

もちろん見えているときと同じように、触れるのをやめると、それは消えてしまった。

人間は、見えずとも何か見ようと必死なんだろうか。

 

人間関係のフラット化。

これも驚きだった。

ゼミ生も、初対面の人も、闇の中では同じ距離にいた。

いままで知ってる、知らないじゃない。

そこにいて、自分を認識してくれている、それだけ。

でも、一旦、蛍光灯の下に出ると、やはり他人は他人で、ゼミ生はゼミ生に思えた。

 

外のあじさいに当たる照明は凶器的であった。

光に、冷徹という意味での「つめたさ」を感じた。

あの暗闇での一時がいかに温かかったか…

いつまでも続けばいいのに…

 

でも、やはりそれは、周りに人がいたからで、一人で行けと言われたら、孤独、恐怖でしかないだろう。

 

無論、私はあの闇の中でこんなにいちいち考えていた訳ではない。

頭の隅っこでこんなことも思っていた程度だ。

純粋に、素直に、あの時間を楽しんでいた。

昔、総合的学習でやった、アイマスクでの全盲体験と違って、視覚障害者への「哀れみ」みたいなものは、一度も迫ってこなかった。

 

文章まとめるのほんと苦手だな…

なんかいろいろ書けてない…

 

第三陣もあるようなので、内容にはほとんど触れていないが、3500円を惜しいと思っていた自分はもういない。

四感を解放する感覚。

なぜだか、忘れちゃ行けない気がする。