我が亡国

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断わっておくが僕の音楽の知識は中学校の校内合唱コンクールレベルだ。

いや今やそれ以下だろう。「♪」の名称すらもはや脳の最下層に保管されていた。まぁベルカントゼミのおかげでその記憶も若返ったわけだが―

いずれにせよ友人の演奏会について書くのは、はばかるものである。素人ならなおさらだ。

 

音楽がわからんなりの僕の「聴き方」というのは、「観る」ことだ、と少なくとも自分ではそう思う。

別に共感覚とかいうわけじゃないだろうが、感動する音楽はこの目に映る。

そして見えない音楽は僕の理解を超えている。

中学校の合唱コンクール、幼馴染のクラスが歌ったのがベドルジヒ=スメタナ作曲の「モルダウ」だった

そのとき初めて聞いたモルダウは大河というより急流だったが、確かに川が流れているのを見た覚えがある

それ以来あの旋律は、いや故郷のできた今となっては、確固たる郷愁と、またそこに流れおおらかにうねる情念のモーメントに支えられ、いつでも、僕が過ぎた時間と人々のためにむせぶ岸辺を演出できる。

あの旋律が好きだ

そう言ったとき、我々は往々にしてその作曲家自身にシンパシーを感じているものだ。

 

だが、「我が祖国」について言えば僕が共感できるのは第三曲の序盤までだった

第一曲、浮かぶのはプラハの街並みか、石畳に駆ける騎兵隊、東欧の優美な自然。

どことなく郷愁を感じるのはなぜなのか?故郷にあるのは古びれたマンションとアスファルトにしかれた線路を軋みながら走行する路面電車に(もはや無為に)金色の刈田だ

しかしすっかり東欧にいる気分?

この時チューバがどんな音楽を奏でていたのか残念ながら僕に知る由はなかった。

第二曲は「モルダウ」で知られるそれである

いつもどうり・・と言ってしまうのはあれだが見たものはやはり同じ、大河だった。

問題なのは第三楽章以降なのだ。僕としてはこれまでの時点で演奏会について満足していたし、これほど感動できるものだとは実際思ってもみなかった。

第三曲以降も、雄大で果敢で情熱的でときに優美な演奏を聴いていた。それは特にこれまでと変わるものではないだろう。

第三曲の最後には圧倒されたし、第六曲の主題には高揚したが

これらの中にある熱気が、情熱を通り越し、うなすような病的な熱になっているように思えてならない

汗まみれに戦う兵士たちも、ヴァーツラフ広場で合唱する群衆も、僕の想像の埒外だ

自分でも困惑する。伝えているものは感じるのに、それらのイメージが生きて動き出すことがない。

スメタナの祖国への激情に見合うレセプターが僕の神経にはないのか?激情は僕の全身の細胞にスル―されている。

 

この交響詩は・・一次大戦後のアルフォンス=ミュシャのための物語にはなっても、冷戦後の我々のための物語にはなりえないのかもしれない。

スメタナの激情がどこからきているのか僕にはわからんが、同じ祖国のために僕には1mlの激情も湧かない。少なくとも今は。

だが今とは、見方によっては亡国の危機とも取れるはずではないのか?もちろんミュシャは国の独立という大事に際していたわけだが、我々とて大事に際していないとは言えないし、激情を煮立てるだけの不安要素はいくらでもあると思う。

兎角深刻に考えればいいというわけではないが、自分がどれほど自分の祖国に関心がないかを感じる。

同時に家族友人のいる故郷に対してもだ。

 

 

帰り道は60円贅沢してJRに乗った。JRは熊本にもある、さびれたホームはどこにでもある、どこでも見つかる故郷の風景もある。

線路もそう。どこにでもある。

黙ってがらがらの車内に、一人窓に寄りかかり外の線路を眺めている。線路にはた迷惑な愛着をなすりつけ、底で淀んでいる記憶に重ねる。電車の音に浮かぶ風景を

だめだ、ネオンサインが邪魔だ。

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