黒色透明
「なぜ宇宙は青ではないのか?」子供のころ抱いた疑問だ。青空の原理はTVでやっていたが、夜空の暗黒の理由は誰も説明してくれなかった。
この問いは間違っている。と言うのは簡単である。光が無いのに色の話をすることに意味はない。
だが空の青と、闇の黒という「色」は特別だ。彼らに触れることはできない。彼らは寡黙である。彼らにはなった声は彼らを突き抜けて他の誰かに跳ね返され、虚ろにこだまするしかない。
抽象的な「色」という感覚は、なかなか自然の中で顔を出さない。平面的な、二次元的な色は三次元の世界にはそもそも有り得ない。青と黒というのが例外としてあるのではないか。彼らだけは、色をフィジカルな具体的な体験とは必ずしも結び付けることができず、むしろ我々の存在自体や心象世界に直接結び付き、それらの地として図を浮かび上がらせる。
そんな黒のみに彩られた体験は、新しい黒の体験である。よりフィジカルな黒の体験だ。
「光が無ければ何も見えない」頭では分かっているものの、事実そうした体験に我々は乏しい。都会の闇夜の闇は暗がり程度の闇でしかないし、日常生活のどんな闇の中でも何かしら視覚に入ってくるものがある。もちろん視界に微妙な光のひだがあることは我々を安心させるから、完全な暗闇が日常から排除されていても文句は言えないだろう。
DIDでの体験はその一点で十分に新鮮なものだった。「光が無いので何も見えない」のである。全く残酷なほどどこもかしこも真っ黒。かつてない状況に、鮮やかな恐怖と好奇心が体中の血管を巡り始めるのを覚える。
突然、僕は全世界と切り離された感じがした。世界と自分という二つしか知覚できるものはない。自分も見えないが、自分の表面を細部に至るまで想像することができる。自分がどこからどこまでなのか、はっきりとわかる。
この感覚は僕の予想を裏切るものだった。黒の絵の具を想像してほしい。水彩では黒ほど厄介なものはない、全ての色を溶かし飲み込んでしまうので調整のために大量の白を要するのである。全て溶かしこむ、取扱注意のマークのついた危険な・・・というイメージが黒にひいては闇にもあった。が、闇に包まれると、むしろ自分の存在は世界から析出してくる。
目が見えている時、我々には「答え」が与えられている。目で見れば、全てのものの配置はたちどころに理解ができるのである。視覚がなければ、他の器官に期待するしかないわけだが、触覚について言えば彼らが常に与えている感覚とは実は自分の表面の感覚ではないだろうか。自分の範囲だけが視覚のない時に得られる唯一確かな位置情報「答え」になる。
空間認識は声でも可能である。アテンドの方は完全に我々の位置を声から推測できるようすだった。とはいえ、少なくとも経験の浅い我々にとっては「答え」は不確定性の海に沈んでいると言わざるを得ない。声のするほうへ、恐る恐る手の甲を突き出し進んでいく。手の届く距離なって、やっと相手の存在に確信が持てる。
結局「答え」を与えてくれるのは触覚しかない。だが触覚はスケールを非常に制限された器官だ。空間全体をとらえるのは不可能である。
だが、「答え」が無いことにはむしろ自由を、すがすがしい解放感を覚えたのも事実である。両手を広げ、ぐるりと体を回転して、何にも触れなかった時の感覚は恐怖ではなく、期待である。中指より先の世界はどんな世界でもあり得る。だがその様子全てを知ることはできないし、知る必要もないのだ。視覚の押しつける世界の教義から解放される喜び。公園の先に見えているのが、コンクリートの砂漠である必要はない。見えないことが、「ありふれた風景」への失望感を破壊する。
肌で感じる黒の空間は日常よりもはるかに具体的な触感を伴っていた。足音、それだけでなくそれによる地面の振動、ブランコの音、それだけでなくそれによる空気の流れ、それらをこまやかに感じ取ることができる。他者の存在もよりフィジカルなのだ。
我々は普段から視覚のドグマに抑圧されている。視覚が提示するのはあるべき世界の完全であり、そこから得るイメージにとらわれてしまうのは無理からぬことである。しかしながら視覚という感覚はあまりに受動的な感覚であり、「目に映るものが真実なのでよろしく」というまさにドグマティックな一面を持っている。と思う。他の感覚を抑圧しかねない、という意味でだ。
暗闇の中で、聴覚と触覚に頼らざるを得なくなった時、我々は自分から動き、声を出すことを余儀なくされる。普段これらの感覚器官はゴール的な運動を行う。つまり知覚の手段としてではなく、接触、会話というコミュニケーションの一形態としての利用となり、運用自体に意味が内在するのである。そしてコミュニケーションとしての側面は暗闇の中でもおとしめられることがない一方、聴覚と触覚は同時に世界の知覚の能動的な手段としての存在意義を強烈に主張し始める。
自ら能動的に働き掛け、相手のフィードバックによって知覚が完成する聴覚と触覚は、視覚とは描く世界観が異なってくるようだ。視覚の受動的で一方通行の知覚というのは、すれ違いが必至である。視線があって初めて我々は共通のコミュニケーションの地平に立つことになる。互いの視線が宙を泳いでいる限り交流する可能性すらない。一方聴覚や触覚では、すでにコミュニケーション可能という共通の地平に立っていることになる。知覚が成り立つためには、相手の働きかけを受け取り、それを返さねばならないという合意が前提となるからだ。
ということで暗闇の中で生まれた見ず知らずの人間への信頼感と依存・・・についての僕なりの考察が以上だ?そろそろ長くなったので最初の話に戻って終わりにしよう。
暗闇の黒はそもそも何なのか?それは何もないことを示しているのか、何かを隠していることを示しているのか・・・この二者択一は実は危険だ。目が見えて、「答え」を最終的に知ることができることを想定している。見えるという前提を失った時、黒は世界である。精神世界などとはもはや結びつかない、現実世界の支配者でありそれそのものだ、そう我々は受け入れるしかない。
「見えない」ことは逆説的に聞こえるが闇の本質ではない。知覚は相対的なものであり闇では「限界」が異なる形で設定されるにすぎないのである。世界を分節化することはその分困難だが、その困難のために、他者と常につながることが許される。
自己も他者も文字通り暗黒物質。このイメージははおそらく本当に闇を体験してみないと分からない。思えば天を仰いでも小鳥のさえずりがふりそそいでくるのは青空ではなかった。そもそも空なんてあったのか?
手に届かない「闇」と触れられる「闇」との落差・・・