Archive for 3 月 9th, 2010

レベッカ・ホルン 静かな叛乱 鴉と鯨の対話

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*以下に続く記事は2月14日に書きはじめられたものです

 

バレンタインデー

街中はもっとカップルであふれているのかと、思っていたが、いつもどうりの日曜の午後だった

むしろ甘く見ていたのは、いつもどうりの日曜の午後の美術館の人の入りである

東京都現代美術館はさびれた街中に唐突にある。

まぁほかの美術館の立地が良すぎるのかもしれないが、アクセスはいいとはいえない

しかしながらチケット売り場には長蛇の列、しかも四列横隊

確かにこの日「レベッカホルン展」は最終日だった

試験が終わってやっとゆっくり美術館を回れると思って来た大学生もいたのだろう

まーカップルもたくさんいたが

ただ、こういう現代美術は少なくとも僕のような没想像力大学生には厳しいものがある

要するにこの展覧会にあれほどの人が集まるというのがそもそも驚きだった

作品の断片をつなぎ合わせて物語を作っていく想像力がみなさんにあるとは信じられないのである

 

たとえば彼女の作品には詩が添えられているものがあるが、僕はそれにもピンとこない

詩に限らず、彼女の作品はどこか叙事的、というか詩的なのだ。何か物語が隠されていそうな気がしてしまう。

それを探してしまう―が、わからずに終わるというのばかりだ。

もっとも彼女の作品にはもっと、一目でわかるようなものもある。

頭長くしただけー、とか、指長くしただけー、とか、顔から鉛筆生えてるー、とか(この辺は自分で見ていただきたい)

いくらなんでも適当・・・シンプルすぎるだろ!と言いたくなる作品群があるのだ。

 

会場の途中の廊下で、顔に鉛筆のついたマスクを着けている女性の映像作品が流れる

顔に鉛筆をつけたマスクをはめたら・・・まぁ、そうだよね、顔でドローイング出来るもんね・・・

しかしそう思ってはっとした。顔でドローイングするなんてばかげた話は他に聴いたことが無い。

と同時にこれでは食事もできない。どうしようもない。口の意味は完全になくなってしまっている。

今回の展覧会の目玉「アナーキーのためのコンサート」にしても、ピアノは逆さに釣り上げられてしまってはまるで意味がない。

意味がない―と言ってしまえば、全てのオブジェに意味が無いのかもしれないが、意味から解放された道具たちはむしろ生き生きしているように見える。

逆さに釣り上げられたピアノは30分おきに「コンサート」を開いてくれる。とても音楽とは言えないようなメロディもリズムも関係ないというような不協和音を出しつつ、全ての鍵盤が一気に飛び出して、静止する。

そのカオケティックで衝撃的な一瞬間、本当にピアノが生きているように感じてしまう。

なんとも破壊的に、暴力的に、自分の存在を主張してくる。

生きているかのように優雅に動く機械仕掛けの蝶が、突然静止してただの金属のオブジェに還る「バタフライ・ムーン」はその逆か。蝶がピタッ、と動きを止めた瞬間襲ってくる死んだような静寂は、まさに暴力だ。

逆さのピアノ、向かい合ったピストルと鏡、長すぎる指、マスクに付けられた鉛筆・・・といった破滅的な構図

あるいは作品の中に垣間見える一瞬の暴力、それらは破滅的、暴力的とは言いながらも、彼女の作品に新たな意味・・・ではなく生命を与えているように感じる。そして生命を与えている彼女、レベッカの、自身の作品やそのモチーフへの愛情も感じずにはいられない。

鴉と鯨の対話・・・はわからんけど(鴉や鯨をモチーフとした作品があったが・・・)、静かな叛乱は確かに感じた。

レベッカ・ホルンの愛情と審美眼が、オブジェたちに、意味に拘束された世界への反乱を起こさせている。

 

「バスターの寝室」という映画も見た、喜劇王バスター・キートンについて知っていると、何か思うものもあったのだろうが、いまのぼくにはりかいしがたい。ぼくにはとてもできない。

光がとても美しい映画だった。ぜひあの映画が撮影された場所に行ってみたい。どこだろ?フランスかなー♪

 

お粗末さまでした。