こころもようの絵画
今年の夏、京都の大山崎山荘美術館で私立の美術館の偉大さに気づかされた僕がずっと行きたがっていた美術館。が、千葉の川村記念美術館。
収蔵してる作品がすごい。ルノワール、モネ、シャガール、ピカソ、ブラック、マグリット、エルンスト、そしてポロックと印象派以降のビッグネームがズラリ、ズラリと。なんだかレンブラントだけ歳食いすぎてて一個ハブられてる感じなんだけど(笑)
これだけでも国立顔負けだが、片道1240円もかかるからにはそれだけではない。ニューマンルームなるものと、世界に四つしかないといわれるロスコルームなるもの備えているというのである!
何の話だ!
って最初はしょーじきわかんなかったのだが、ロスコもニューマンもポロックと同時期の象徴主義の画家らしい。それを九月から予習しておきながら感じたのは、駒場の壁を真っ赤に染めたのってロスコ意識?ニューマン意識?なんて。そう、ロスコやニューマンの作品というのは、多くが壁を1色~3色程度で塗るものなのである。
ネットで見ると、おれも幼稚園のころこんなの描いたぞ!と思うかもしれない。「『瞑想する絵画』ロスコ展」なんてコピーもいかにも大袈裟。評論家が芸術いえば芸術というような時代だし、むしろ「迷走」の間違いじゃないかなんて、馬鹿にしてられるのも、かの部屋に入るまでである。
部屋には余す壁なくロスコの壁画が掛けられている。茫漠とした光の中で、彼の茫洋とした絵画は一層ぼんやりとして、部屋のどこか深いところに沈み込んでしまっているかのようである。
一面のえんじ色に、赤のゆがんだ四角形が浮かび上がっている、この部屋にあるのはすべてそういう絵だ。壁画の正面に立っていると、自分の心もどんどんその深みに沈んでゆく感じがする。音もなく、静かに沈んでいく。自分の精神の中を覗き込んでいるかのような感覚。
四角形は何かこころに浮かんだはっきりしたもの、言葉のようなもの。しかし四角形の中央の空間は・・・決して言葉に表れることのないぼんやりしたものだ。だからこの壁画の前に何時間と座って眺めたところで、そのぼんやりの一番底まではたどりつかないだろう。どこまでも深い、こころという言葉の深さほど深く広いえんじ色である。
僕もこの部屋で二十分ほど瞑想にふけっていた。いや、この部屋ではそうするしかないのであるが。
この七角形の部屋の狭さ、照明の判然としない色、床の地味な色、どれも絵と客が最適な関係になるようデザインされているのだろう。「作品と個々の観客との関係性の中に芸術の価値がある」とかいう屁理屈めいた芸術理論を、初めて理屈なく理解できた気がする。何ら奇抜でもなく、美しくすらもない図形。それでも僕が見ると、僕自身のこころの拡大図になってしまう。
すっかりロスコのとりこになった僕だったが、この日長居する時間はなかった。なんせ都心から二時間半もかかる。飯も食べていない。しかも雨が降っている。一人で遠出するといつも雨が降る。雨男?・・・すべての展示を見終えたが、ロスコの部屋には戻らず、結局ロスコの画集を買って、帰った。ニューマンについては・・・よくわからなかった。
でもやはり違うんだな。A4では、ロスコといえない。いつか自分の家の壁の一面に、あの絵を飾って一日中ぼんやり眺めていたい。
電車の中でのセットリスト、暗いのから明るいのへ、っていう感じになりました。
Humbug(Arctic Monkeys)~In This Light And On This Evening(Editors)~Live at The Annandel Hotel(Life Without Buildings)~Emergency And I(The Dismemberment Plan)~Insignificance(Jim O’Rourke)
Life~は飲み会の時買ってたやつです。Jim O’Rourkeに取材に行けたらなんて身分不相応の望みを抱いていたりして。
ちなみに明大前で坪井君に遭遇しました。「この奇跡、どうしようか」との彼の問いに「この場で噛みしめればいいんじゃない・・・?」と答えた自分。なんともエスプリのきかない答え・・・勉強しましょう。。
This entry is filed under 未分類. You can follow any responses to this entry through RSS 2.0. You can leave a response, or trackback from your own site.
-
No Comments
Post your comment