レベッカ・ホルン 静かな叛乱 鴉と鯨の対話

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*以下に続く記事は2月14日に書きはじめられたものです

 

バレンタインデー

街中はもっとカップルであふれているのかと、思っていたが、いつもどうりの日曜の午後だった

むしろ甘く見ていたのは、いつもどうりの日曜の午後の美術館の人の入りである

東京都現代美術館はさびれた街中に唐突にある。

まぁほかの美術館の立地が良すぎるのかもしれないが、アクセスはいいとはいえない

しかしながらチケット売り場には長蛇の列、しかも四列横隊

確かにこの日「レベッカホルン展」は最終日だった

試験が終わってやっとゆっくり美術館を回れると思って来た大学生もいたのだろう

まーカップルもたくさんいたが

ただ、こういう現代美術は少なくとも僕のような没想像力大学生には厳しいものがある

要するにこの展覧会にあれほどの人が集まるというのがそもそも驚きだった

作品の断片をつなぎ合わせて物語を作っていく想像力がみなさんにあるとは信じられないのである

 

たとえば彼女の作品には詩が添えられているものがあるが、僕はそれにもピンとこない

詩に限らず、彼女の作品はどこか叙事的、というか詩的なのだ。何か物語が隠されていそうな気がしてしまう。

それを探してしまう―が、わからずに終わるというのばかりだ。

もっとも彼女の作品にはもっと、一目でわかるようなものもある。

頭長くしただけー、とか、指長くしただけー、とか、顔から鉛筆生えてるー、とか(この辺は自分で見ていただきたい)

いくらなんでも適当・・・シンプルすぎるだろ!と言いたくなる作品群があるのだ。

 

会場の途中の廊下で、顔に鉛筆のついたマスクを着けている女性の映像作品が流れる

顔に鉛筆をつけたマスクをはめたら・・・まぁ、そうだよね、顔でドローイング出来るもんね・・・

しかしそう思ってはっとした。顔でドローイングするなんてばかげた話は他に聴いたことが無い。

と同時にこれでは食事もできない。どうしようもない。口の意味は完全になくなってしまっている。

今回の展覧会の目玉「アナーキーのためのコンサート」にしても、ピアノは逆さに釣り上げられてしまってはまるで意味がない。

意味がない―と言ってしまえば、全てのオブジェに意味が無いのかもしれないが、意味から解放された道具たちはむしろ生き生きしているように見える。

逆さに釣り上げられたピアノは30分おきに「コンサート」を開いてくれる。とても音楽とは言えないようなメロディもリズムも関係ないというような不協和音を出しつつ、全ての鍵盤が一気に飛び出して、静止する。

そのカオケティックで衝撃的な一瞬間、本当にピアノが生きているように感じてしまう。

なんとも破壊的に、暴力的に、自分の存在を主張してくる。

生きているかのように優雅に動く機械仕掛けの蝶が、突然静止してただの金属のオブジェに還る「バタフライ・ムーン」はその逆か。蝶がピタッ、と動きを止めた瞬間襲ってくる死んだような静寂は、まさに暴力だ。

逆さのピアノ、向かい合ったピストルと鏡、長すぎる指、マスクに付けられた鉛筆・・・といった破滅的な構図

あるいは作品の中に垣間見える一瞬の暴力、それらは破滅的、暴力的とは言いながらも、彼女の作品に新たな意味・・・ではなく生命を与えているように感じる。そして生命を与えている彼女、レベッカの、自身の作品やそのモチーフへの愛情も感じずにはいられない。

鴉と鯨の対話・・・はわからんけど(鴉や鯨をモチーフとした作品があったが・・・)、静かな叛乱は確かに感じた。

レベッカ・ホルンの愛情と審美眼が、オブジェたちに、意味に拘束された世界への反乱を起こさせている。

 

「バスターの寝室」という映画も見た、喜劇王バスター・キートンについて知っていると、何か思うものもあったのだろうが、いまのぼくにはりかいしがたい。ぼくにはとてもできない。

光がとても美しい映画だった。ぜひあの映画が撮影された場所に行ってみたい。どこだろ?フランスかなー♪

 

お粗末さまでした。

Green/Orange

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こないだの話だ。自分の有史がいつからかというのがどうも僕にははっきりしない。

東西ドイツ統一とともに生まれたがもちろん記憶にない

阪神大震災、地下鉄サリン事件、小渕敬三、全く覚えていない

長野オリンピック・・・エリツィン・・・森喜朗の輪郭線が描けない

同時多発テロ、日韓ワールドカップ、らいおんはーと、このあたりからだんだんはっきりしてくる。この時すでに10代に突入している。何とも遅い自我の目覚めだ(笑)

 

考えてみると、これまでの人生の中で、過去を振り返るということをあまりしたことがなかったようだ。

過去の自分は常に乗り越えられるべき存在だった。別に向上心の問題ではない。単純に過去の自分は嫌いだった。そこには臆病で傲慢で愚かな自分しかいない―そう思わずにいられなかった。

それはもしかすると幼稚園のころからそうだ。「今」という時間が怖かった。過去はとても調和のとれた、安定したものに感じられたが、今にもそういった日常性が失われてしまうのではないかという不安感を夜、布団に入るといつも抱いていた。「明日には突然幼稚園のみんなが敵になっているかもしれない・・・いやそんなはずはない!」という感じに。いや、冗談ではなくホントの話である。

「今」という時間に対する不安定感が常に、「昨日はうまくいった。しかしそれは自分の力ではない。偶然にもそうなったというだけなのかもしれない。」という圧迫感を僕に与えていた。世界は自分の理解を超え、うまくできすぎているという感覚すらあった。自分は結局何もしていない、何も変えていない、何も創り出していない、幼稚園生にして一種の徒労感を引きずっていた。そういう自分が一番傲慢であるとは気付かずに・・・

「何もしていない」自分は常に否定すべきものだった。

 

そう、不思議と他人に関する思い出は残っている。だが自分の思い出は記憶の隅に追いやられてどんどん意識の裂け目に落ちていった。だから自伝なんてとても書けない。回想自体もままならない。ルソーという男はよっぽど変態だったのだろう。

ところでプルースト効果というものがある。匂いで記憶が呼び覚まされるというやつだ。

僕が最もなじみのある果物がある。メロンである。勘違いしないでいただきたい。僕は入院がちで差し入れのメロンばかり食べていたわけでも、メロン以下の果物は出ない贅沢な食卓を囲んでいたわけでもない。祖父母がメロン農家だったのだ。

実家からメロンが届いた

パッケージの段ボールがいつもと違っている。が、中身はもちろんいつものあの―薄いグリーンの、白い網目のまとわりついている、あのかわいらしい―

なかなか食べる気になれない。きっと中にはいつものオレンジ色が詰まっている。切って見ればきっと美しい、オレンジと、グリーンのハイライトが現れるだろう。今まで一度も美しいと思ったことのなかったその色が。だがきっと美しい。真っ白い貧弱な部屋の張り紙に映えるだろう。

メロンの香りをかぐ。美しい故郷の風景。しかし思い出は退屈だ。ビニールハウスの中で突っ立ている。湖の前で突っ立ている。またしても夕食後出てきたメロンにさすがにうんざりしている・・・もっと素直なガキだったら無邪気な美しい思い出ですんだのかもしれない。

美しいのはメロンのほうだ

過去の思い出ではない

だが次第に―甘美なメロンの香りの中に、思い出の中の鬱屈とした何かは霧散していく。その網目の紡ぎだす旋律の中に、僕の声は飲み込まれていく。そのみずみずしい二色の輝きの中に、僕の顔はかき消されていく。

 

消えていく・・・あのグリーンとオレンジに、不似合いな記憶、全て―

むせ・・

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むせるほど過剰で過激なロマン主義による、一大誇大妄想的音響詩を鳴らす“世界最強の3ピースバンド”、それがMUSEである。

中学の時初めて聴いた時、つい「むせ」と、発音してしまったが、正しくは「みゅーず」だ。いや、いっそのこと「むせ」でもいいと思うが。

1月12日は彼らの武道館公演であった。正直はじめは行く気はなかった-というのも、彼らの去年の作品”Resistance”が、個人的には年間ベスト20にも入らないであろうという作品だったからだ。前作”Blackholes and Revelations”は大好きだが、近作は前作の変態路線が無秩序に拡大し始めて、キリコの「愛の賛歌」を狩野一信がワーグナーにあわせてブレイクダンスを踊りながら模写した、みたいな、あまりに過剰で逆に崩壊寸前という作品になった、ように感じるからだ。

しかしながらMUSEはライブバンドとして絶大な支持を集める。これを見逃す手はない。とおもいて某Yo_Iさんとともに武道館へ、行った。

会場はほぼ満席。やはり人気だ。グッズ売り場には百メートルは優に超える列ができていた。

一曲目はやはり”Uprising”一気に会場はMUSEの1984年的SFワールドへ。それから怒涛の”Map of the Progrematic”"Super Massive Blackhole”"New Born”"”Hysteria”というファン垂涎のヒットパレード。こうなるともうフロアに両足をつけて立っているものはない、と、思いきや一階中央席すわっとるし!何しに来とるんだ!?

その後一転してスロウなナンバーに、と思いきや直後に“Dead Star”でくぎを刺すあたりさすが。マシューの左手には一体指が何本あるのやら。そして問題の「クイーンっぽい」“United States of Eurasia”・・・さらに「君のひとみ恋してる」のカバーで日本のファンにサービス・・・ヒップホップ調の”Undisclosed Desire”・・・タイトルトラック”Resistance”・・・しかしこのあたりは正直個人的にボルテージが下がった。MUSE的にはライブ向きの曲では決してないように思われるからだ。

14曲目は待望の”Starlight”ここで会場も割れんばかりの手拍子で一気に盛り返す。三人も止めをさしてやると言わんばかりに”Time is running out”そして近作随一の破壊力”Unnatural Selection”。”no, (hey!)chance, (hey!)to fate, (hey!) …it’s a unnatural selection …I, WANT, THE TRUUUTH!!!  ” もう右手を突きあげずにはいられない。

ここでいったん三人はアウト。アンコールは”Exogenesis: Symphony, Part 1: Overture”から。やっぱりやるのね、これを、ライブでも。でも何故ガチャピンの着ぐるみなの?というMUSE式「交響曲」。続いて人気曲”Plug in Baby”みんな待ってましたと言わんばかりだ。でも最後の”Knights of Cydonia”こそが文句なしのベスト。まさにアンセム。

 

なぜ彼らはこんなに人気があるのか?なんせヨーロッパはすでに完全制覇、という感じだ。日本で人気が出ない理由もないのだが、彼らはとにかくトレンドもマナーも関係のないバンドだ。マシューのファルセットと超絶的なギターとそのSF趣味にセクシーなルックス、というだけでバンドの怪しいキャラクターは出来上がっている。その点苦労しているColdplayやThe Killersとは違う。しかもワンマンチームではなく残りの二人もバカテクだ。彼らはとにかく気の向くままに膨張できた。興味のあるものを自由に取り入れ、ソングライティングの能力もいかんなく発揮して、ある意味どのバンドよりも誠実なバンドだ。ライブの演出もそう、やりたい放題で打算はない。多分迷いもない。故に力強くてなんとも痛快。同時多発テロの2001年にみんなが沈んでいる中、”Origin of~”みたいなキラキラした作品は普通作れないだろうと思う。

確かに近作のMUSEもMUSE以外の何物でもない。近作で孤高のバンドとして地位を完全に固めたようだが、僕はやはりそれでは不満。”Knights of~”は前作の曲だろ!と突っ込まざるを得ないので。まぁ、彼らにはそんなの関係ないのか・・・

 

 

 

こころもようの絵画

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今年の夏、京都の大山崎山荘美術館で私立の美術館の偉大さに気づかされた僕がずっと行きたがっていた美術館。が、千葉の川村記念美術館。

収蔵してる作品がすごい。ルノワール、モネ、シャガール、ピカソ、ブラック、マグリット、エルンスト、そしてポロックと印象派以降のビッグネームがズラリ、ズラリと。なんだかレンブラントだけ歳食いすぎてて一個ハブられてる感じなんだけど(笑)

これだけでも国立顔負けだが、片道1240円もかかるからにはそれだけではない。ニューマンルームなるものと、世界に四つしかないといわれるロスコルームなるもの備えているというのである!

 

何の話だ!

って最初はしょーじきわかんなかったのだが、ロスコもニューマンもポロックと同時期の象徴主義の画家らしい。それを九月から予習しておきながら感じたのは、駒場の壁を真っ赤に染めたのってロスコ意識?ニューマン意識?なんて。そう、ロスコやニューマンの作品というのは、多くが壁を1色~3色程度で塗るものなのである。

ネットで見ると、おれも幼稚園のころこんなの描いたぞ!と思うかもしれない。「『瞑想する絵画』ロスコ展」なんてコピーもいかにも大袈裟。評論家が芸術いえば芸術というような時代だし、むしろ「迷走」の間違いじゃないかなんて、馬鹿にしてられるのも、かの部屋に入るまでである。

 

部屋には余す壁なくロスコの壁画が掛けられている。茫漠とした光の中で、彼の茫洋とした絵画は一層ぼんやりとして、部屋のどこか深いところに沈み込んでしまっているかのようである。

一面のえんじ色に、赤のゆがんだ四角形が浮かび上がっている、この部屋にあるのはすべてそういう絵だ。壁画の正面に立っていると、自分の心もどんどんその深みに沈んでゆく感じがする。音もなく、静かに沈んでいく。自分の精神の中を覗き込んでいるかのような感覚。

四角形は何かこころに浮かんだはっきりしたもの、言葉のようなもの。しかし四角形の中央の空間は・・・決して言葉に表れることのないぼんやりしたものだ。だからこの壁画の前に何時間と座って眺めたところで、そのぼんやりの一番底まではたどりつかないだろう。どこまでも深い、こころという言葉の深さほど深く広いえんじ色である。

僕もこの部屋で二十分ほど瞑想にふけっていた。いや、この部屋ではそうするしかないのであるが。

この七角形の部屋の狭さ、照明の判然としない色、床の地味な色、どれも絵と客が最適な関係になるようデザインされているのだろう。「作品と個々の観客との関係性の中に芸術の価値がある」とかいう屁理屈めいた芸術理論を、初めて理屈なく理解できた気がする。何ら奇抜でもなく、美しくすらもない図形。それでも僕が見ると、僕自身のこころの拡大図になってしまう。

 

すっかりロスコのとりこになった僕だったが、この日長居する時間はなかった。なんせ都心から二時間半もかかる。飯も食べていない。しかも雨が降っている。一人で遠出するといつも雨が降る。雨男?・・・すべての展示を見終えたが、ロスコの部屋には戻らず、結局ロスコの画集を買って、帰った。ニューマンについては・・・よくわからなかった。

でもやはり違うんだな。A4では、ロスコといえない。いつか自分の家の壁の一面に、あの絵を飾って一日中ぼんやり眺めていたい。

 

 

電車の中でのセットリスト、暗いのから明るいのへ、っていう感じになりました。

Humbug(Arctic Monkeys)~In This Light And On This Evening(Editors)~Live at The Annandel Hotel(Life Without Buildings)~Emergency And I(The Dismemberment Plan)~Insignificance(Jim O’Rourke)

Life~は飲み会の時買ってたやつです。Jim O’Rourkeに取材に行けたらなんて身分不相応の望みを抱いていたりして。

 

ちなみに明大前で坪井君に遭遇しました。「この奇跡、どうしようか」との彼の問いに「この場で噛みしめればいいんじゃない・・・?」と答えた自分。なんともエスプリのきかない答え・・・勉強しましょう。。

 

 

 

 

 

ポストモダン焼き

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―南北線の長いトンネルを抜けると猫ビルであった。眼の下が黒くなった。お手洗い所に息が止まった―

の出だしで始まる有名な小説「猫ビル」・・・嘘です。

 

 

この駒場祭の期間中、様々な体験をしたが最も新鮮だったのはやはり猫ビルでのテツヤである。

猫ビルの蔵書の量、その構造、仕事場の状況、先輩達の仕事風景、そして立花先生のマジックアワー・・・すべてが衝撃(一部、笑撃)だった。

あのトイレの魅力をどう伝えればいいのだろうか。

ビル中に雄々しくそびえ立つ本棚の、その一架も。 帰るはずのない床面にその居場所を求めざるを得なくなった無数の本たちの、その一冊も。 その扉の向こうへは、歩みを進めることを許されず。 不当と無秩序に満ち満ちた、階段と、仕事場は、歯牙にもかけずに。 自らは平静と調和と孤独を持って。 常に、知の高みへと登らんとする我々の前に。 一輪の、 意味の砂丘の中に咲く、無意味性のオアシスとなって。 その白い流線型は立ち塞がるのである。 さながらかのマルセル・デュシャンによる、「泉」のように。

まだ見たことのないゼミ生の皆さんも、ぜひあの部屋に一人で入って、途方に暮れてほしいと思います。

 

それからモダン焼きである。

とりあえず午前四時のモダン焼きはやめた方がいい、と言っておきたい。(周囲から「ポストモダン!」と呼ばれる羽目になりますよ)

 

いや、実際はモダン焼きは美味しく戴かせてもらった。

僕の中でモダン焼きという存在は、遥かに幼かった頃の記憶の一ページだ。

小学生、いや幼稚園生の頃だろう、よく家族で食べにいったのは。僕はモダン焼きの存在が気に食わなかった。「なんで一人だけカタカナなんだ!ただの焼きそばが入ったお好み焼きに過ぎないじゃないか。」お好み焼き屋のメニューを見つつ、生意気な幼稚園生はそう考えていたのである。兎に角気取ったものが大嫌いな小生であった。

調べてみてもモダン焼きの名前の由来はよくわからない。

作られたのは70年代初めらしい。もはやレトロ焼きと呼んでもいいぐらいだ。

そもそも何をもって「モダン」であるのか?焼きそばは戦時中作られ、戦後一般的に食べられていたらしいし、お好み焼きの歴史ははるかに古く、江戸時代以前にさかのぼるという。

しかしよく考えてみると70年代といえば、そう、インスタント麺が食卓に登場した年代である。71年に初のカップ麺「カップヌードル」、74年には初のカップ焼きそば「エビスカップ焼きそば」が生まれる。

もしかすると焼きそばは当時のモダン・エイジャー(またつまらぬ造語を作ってシマッタ・・・)の食べ物だったのかもしれない。

同じ原理でいえば現代のモダン焼きは、名にし負わば、ウィダーかカロリーメイトかSOYJOYあたりを混ぜたほうがその本懐を遂げるというものなのだろう。いずれにせよポストモダンに生きる我々に今更モダンなど野暮な言葉だ。(70年代も微妙な気がするが・・・)モダニズムの文脈のモダンなら「もだん」と書いてくれたほうがわかりやすい。

 

 

そんなこんなでポストモダンを正直よく理解していない僕から提案~

「聖書に焼きそばを挟んで焼く」、これってポストモダン焼き

だったり

I have seen the writing on the wall

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壁の落書きに新手口が出てきた

そう、ついにスプレーが使われ始めたのである

ようやく「壁の落書き」らしくなってきたところで、 一体何なんだ! あの空気を読まない落書きは!

MGMT?一年遅いわ!(そういう問題ではない) 俺への当てつけか!(自意識過剰)

 

エー、と MGMTというのはNYのブルックリンを中心に活動するエレ・ポップユニットでして、去年のデビューアルバムのOracular Spectacularが世界的にヒットして、その冒頭を飾る1stシングルがTime to pretendだったというわけなのです。

駒場のどれくらいの人があの落書きの意味を解したのだろうか?

しかしながらMGMTのチョイスは「なるほど」と感じる節もある

彼らはヒッピースタイルで臆面も無くロックスター願望を歌うのである。連帯もクソもない、ロックも対抗文化としての価値を失ったこの現代において。

彼らは徹底的に現実逃避的な音楽をつくり、まったく現実を無視したスタンスをとるのだ。きっと確信犯なのだと思う

アメリカのブルックリンという場所はここ数年の間世界の音楽シーンの最先端であり続けた。Animal Collective, TV On The Radio, Yeah Yeah Yeahs, LCD Soundsystem, Grizzly Bear, Battles, Dirty Projectors,  Clap Your Hands Say Yeah, そしてVampire Weekend・・・あげればきりがない(いやまったく)そして僕が好きなバンドばかりである。

彼らの音楽というのは9.11以降暗い時代が続いてきた。そしていま、彼らのシーンは一気に祝祭ムードである。オバマの登場によって、だろうか

MGMTは真っ先に陶酔的でエキセントリックな音楽を送り込んできた。しかし彼らの音楽は決して何かを祝っているわけではないのかもしれない。彼らはむしろ逃げるのである。希望を持つのではない、もっと動物的な人間の姿を映しているようだ。

彼らの言っていることを、(笑)とか、もはや皮肉だとか、聴く人は思うのかもしれないが、それでも彼らのシンセに酔いしれる、一種のシニカルさを我々は持っているのだろう。

“We are fated to pretend”という言葉は実はものすごく真実味のある言葉なのかもしれない。「シニカルに薄味に生きるのでもなければ、自ら虚像になるしか生きる道はない」という、残酷な宣言だ

世界がますます「動物化」していくとすればMGMTは確かに今の世代のアイコンといえる

 

心なしか最近は動物の名前の付くバンドが多い。Animal Collective然り、Grizzly Bear然り、Arctic Monkeys然り。

落書きした方、いつかお会いしましょう~

戦績。

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知の創造的摩擦プロジェクト第九回交流会。行ってきました

開会直前に行きましたが長蛇の列・・・イガイと人が多い

まさかの同クラ(悪名高き理一スぺ)も一名

そして総勢なんと100名近くの卒業生と200名ほどの在学生

 

・・・結果10余名の方にしか宣伝できませんでした。(6名は口頭でいただきました)僕の力不足です。。

交流会自体は有意義でした

官僚の方と直接話しましたが、まさに理路整然。

「子供手当はダメだ」とか「オバマのノーベル賞はおかしい」とか「記者クラブはいらない」とか結構ザックリと話しましたが、テーマは本質論をどう語るかということでした

政治に本質を追究させていくことは難しい。少なくとも現時点では。しかし官僚はできるだけ本質に寄せるように努力しなければならない。政治を変えるためには、官僚の声が外に行かない以上、本質論を語る存在が、政治と経済の権力構造から離れて必要になる。それはジャーナリズムでもあるし、そのほかに権力から離れた団体が、オバマの小口献金みたいな形で直接政治にコミットするようなやり方もある・・・

そんな話だったと思います

そして今僕たちの世代は、少子高齢化もろもろの事情でひずみをもろに受ける(笑・・・事ではない)

 

今回は最後のほうはゼミの宣伝だけしてあんまりしゃべんなかった人が多かった。

そんで帰り道結構空しかった・・・

次回は仕事抜きで行きたいです。

最近読んだ本とか

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自分の名前でググったら見聞伝が2番目に出た・・・

恐るべし見聞伝

・・・いや、まだまだなのか?

というのはともかく、暇なうちにブログ書きます(暇でもないが)

 

○bookreview 1 「負の生命論―認識という名の罪―」_金森 修

この本はガイア関係の本を図書館で借りたとき、隣にあったので前々から気になっていた。

・・・読み始めて数ページで読む気が失せる

僕が想像していたよりはるかにこの本は僕の負のイマジネーションを掻き立てるものだった

しかも視覚野に訴えてくる

金森氏はごく冷静に、精緻に、豊かに、人体実験や機械的生命観やLSDが我々凡人の分別を超えて、それでいて凡人の論理学から外れることなく正当化されていく様子を描いてくれる

特に人体実験の項は「患者を治療すると偽って実際には見殺しにして死に至るまでの病気の経過を観察する」という実際にあった研究が、”異様な”低いテンションで語られる。読んでいるほうには何かしらの感情がこみあげてくるが、なんともそれが行き場のないものになってしまう。何に感情をぶつければいいのか?もしかするとぶつけようもないものなのではないか?

これは将来科学の道に進むかもしれないものにとっては恐怖だ・・・つまり誰かが悪いとかいうわけではなく、この本で金森氏が示唆するのは、知性そのものの、もしくは知性の陰に隠れた「狂気」のようなものだからだ

まったくこんなネガティブな性格に輪をかけてネガティブにするような本を読んでどうするんだとも思ったが、読後感は何となくよかった

「結局抜け出せないのだ」という前向きなあきらめ(?)というのはありがちなものの、とりあえず僕の科学への漠然とした不安感は未だ捉えどころはないが、これからも僕の心は、知性の窓の付いた観覧車の個室に閉じ込められたままで、それがめぐり続けていく以上、拭うことはできないのだろうということはわかった気がした

科学を志す人もそうでない人も、読んでおいて損はないと思う

 

追記;金森氏の著作は木許さんの本棚にもあるみたいです

 

たぶんこれを読む方々は興味がないと思いますが後々The Wallもやるのでテストということで

○discreview  1″In this light  and On this evening”_Editors

待ちに待ったEditorsの新作。

前作”An end has an start”が個人的にツボだっただけに期待度隆。・・・高し。

とはいえ先行シングルを聞いた時は若干引いた

シンセばっかやん!あの何か急がせるようなギターは何処へ・・・

ジャケットは・・・砂漠に浮かぶ都市だろうか?それとも霧?洪水?

ともかく内容だ。これは・・・重い これまでになくダウナーだ

#1のタイトルトラックは攻撃的でやはりこれまでにない。しかし#2(←名曲)以降は彼らの十八番の都会的なメランコリアが帰ってくる。これまでと違うのは、それがまさに街を覆う霧のような、陰鬱ながらも神秘的な”雰囲気”となって現れていることだと思う

まさに街の神秘と憂鬱

これまでの彼らは聴く人の内面にしみいるようなメランコリーを奏でていたのに対し、今回はもっと感覚に訴えるというか、空気を作り出してしまうレコードだ

その分若干大げさな表現になってしまった気もするが・・

彼らの挑戦は成功したと思う。個人的には結局期待以上。余裕の平均点越え

もしかして傑作?

 

 

 

 

 

ついでに

船曳ゼミに落ちた件について(笑)

教授は趣味が合わない人は落とすんだそうで・・・

(口頭尋問)

船「演劇を見に行ったことは?」―上「生ですか?ありません。」

船「なぜ見に行かなかったの?」―上「えー、特に興味がなかったから・・・」

 

いや、興味ないのかよ!

でも「なぜ」って・・・

 

筆記試験もあった

「1.自民党の再生案」「2.のりピーについて」「3.語るに及ばぬ自分について敢えて語ることについて」の3題から1題

普通に3番

口頭尋問うるさい

・・・開始一時間ぐらいしてから集中してきた(ほとんどの人が書き終わっていた)

「僕の経験からすると人は、自分自身のアイデンティティを維持していくために、自分自身に自分について語りかけるということをしている。自分の中の自分の知るに及ばないダークな部分が、自分の表面に出てこないようにする、自浄的な・・・」

 

・・・なんかずれてきた。国語のテストなら0点である

そういうのは気にせず最後まで書ききった僕に祝福を・・・

 

 

と思っていたら案の定落ちた

 

 

他人に面と向かって否定されることなんてあまりない時代

 

なんで落としたかぐらい教えてください

東大の入試みたいに・・・

 

星とたいふう

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朝から台風(ご無沙汰)~ALESS(初)~イタトマ(初)~基礎実験(初)~伊熊さんの近現代史(ご無沙汰)~近所の本屋の閉店セール(…)~隕石落下目撃(初!)~ブログ(初?)

今日昨日はやたら盛りだくさんな一日。何を書けばいいのやら

 

台風が通り過ぎて、「暴風晴」みたくなってる今日昨日のような奇妙な日が僕は大好きだ

台風には散々迷惑を掛けられてきたけど、台風の後に路上に不自然に木の葉だの木の枝だの散らかっているのを見るのが愉快でたまらない。確かに田舎ではベランダも壊されたし、玄関も吹き飛ばされたし、屋根も半分持っていかれて保険も大して下りなかったらしくて困ったけど、いつもは毅然として無表情で突っ立ていた我が家が廃屋となってしまっていかにもアンバランスに、首をかしげている姿はむしろ愛らしく美しくさえあった。台風は堅苦しい日常を字のごとく「壊して」くれるし壊れたものの存在自体が非日常を作ってくれて愉快だ。美しいと感じるのはいきすぎかなぁ

それから夜にも美しいものを見た

ちょうど父と電話しているとき、台風のため閉めていた雨戸をあけると、夜空に北極星よりも少し明るいぐらいの火の玉が現れて燃えつきながら落ちて行った。

えっ、NEWSになってないって!?

誰か撮ってないんだろうかあの映像・・・定点観測とかには映ってるのかなぁ

もう見るすべもないとしたらこの時代珍しいよねー都会の真ん中(かどうか定かではないが)で落ちた隕石の映像が見れないなんて

誰も見たことがないとしたらどうやってそれを証明すればいいのか

僕たちには科学という手段があるわけだけど、ALESS基礎実験では科学者は「誰も見たことのない世界を見せる」ものだなぁ と感じた。

hypothesisを立ててexperimentで証明をしていくという方法で我々は月の裏側までも見ることができるようになった。作りものでいいならきっと、今の科学技術で見れないものなんて、僕たちの想像には及ばないものなのだろう。見たいものだけ見ていてもきっと生きてゆける

けれどもこの世には見たくないものもたくさんあると思う

シャムシールで自分の頭をたたき割りながら、アメリカ帝国の滅亡を謳い、自ら失神して宗教的超越(殉教への意志)を得ようと街を行進するパキスタン人の映像なんて誰も見たいとは思わないだろう

僕が夏学期とった伊熊さんの近現代史を再び見に行ったのは、そうした「見たくない」ものが見れたからだと思う。おそらく与えられなければ見ないけど、インスピレーションを得るため観る必要のある映像 ということだろう。それにしてもネットを開いても、やはりほかに見たいものはたくさん用意されてあるから、そこまで気が回らないんだなぁ・・・

イタトマ・・・イタリアはローマの英雄トッティ・・・ユリウス・カエサル(Julius Caesar)の言葉は、中学生だった僕の心に突き刺さって、今も抜けないままでいる

「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。」

この言葉は僕の人格のネガティブな部分を形成するものの中で大きな比重を占めている。僕はカエサルのせいでネガティブになった。「死せる公明~」とかいうやつである。もっとも僕は司馬懿忠達のように聡明ではないが

カエサルはローマ共和政末期の危機を、おそらく幻想ではなく、現実のローマの状況を見ていたそのほかの政治家たちも見抜けなかった危機の本質を見抜いていたからこそ、帝政ローマの礎となれたのだと思った。偉大な人物は誰にも見えない現実を、見ている。だから自分も裏の現実を見ようと努めた

近所の本屋の閉店セールで30%offのCDを買いつつ、カウンターの定員の笑顔は僕には作り笑顔に見えた・・・本当は違うかもしれない。しかしそういうバイアスがかかってしまうので厄介な性格だ

しかしながらどんなに頑張っていてもきっとみえないものがあると思う

見ようとしてないことにすら無自覚であるもの

それは実験に影響を与えるunexpected variableのようなものかもしれない

カエサルの言葉をうのみにするなら、それらが台風となって、隕石となって人間界に落ちてきても希望はないことになる。僕はその様子も美しいと思うのか?

僕の買ったCDのタイトルは”The Dark Side of the Moon”(邦題;「狂気」←名訳!)Pink Floydの大⁵傑作。30%になるまで待ってました、ハゲワシのように。そりゃ後ろめたくもなるかな

科学が月の裏側を見るなら僕の「狂気」も見れるようになるかもしれない。しかし#9Eclipseでロジャーは云う「あの太陽のもと すべては調和を保ってる だが その太陽は徐々に月に浸食されていく」

う~んやはり何かある?あるならそれを探したい

金子みすゞさんの詩は美しい

青いお空の底深く、

海の小石のそのように、

夜が来るまで沈んでる、

夜のお星は目に見えぬ。

見えぬけれどもあるんだよ。

見えぬけれどもあるんだよ。