立花先生、古希のお祝い

先日5月28日は立花先生の古希のお祝いでした。

立教大学の第一学生食堂が会場だったのだが、 いかんせんセントポールなので、雰囲気があった。

立花隆は駒場だけでなく、立教大学の教養枠でも講義をなさっていたり、立教大学大学院、セカンドステージ、子猫など様々なところで「立花先生」をやっていらした。 そのこともあって、お祝いには立花先生よりも年上の方から18歳まで幅広い年齢層が集った。 (あまり立教系の方々と接することができなかったのが、心残り。)

おのおののグループから代表の人が出て、お祝いの言葉を送る。 それに立花先生からのお返事。しかも、レジュメ1枚と資料4枚付き(!)。 (気がひけるので、細かい引用はしないでおきます。)

S.マラルメの«SALUT» T.S.エリオットの”A Game of Chess” を経由して、 残りの時間でなさろうとしていることを紹介。 そのいくつかは、部分的に活字になっているものの、9冊もある。現在動かそうとしている、PCK(冷戦後に生まれた子ども達)のためのプロジェクトも。

しめくくりは、アポロ13号の事故の際の名台詞だった。

〈いよいよお尻に火がついた〉*けれど、冷静に、進んでゆく。 そんなお話でした。 こちらが祝うはずが、特別講演をしてもらった気がする。先生はこれから「進む」どころか、加速してゆきそうである。

先生の覇気に負けてはいられない。

 * 立花先生のレジュメより。エリオットの詩の解釈。

活版凸凹フェスタ

今思えば、もうだいぶ前のことになってしまいますが、

活版凸凹フェスタ

へ行って参りました。あの頃はまだゴールデンウィークでした。

ちゃっかりアダナ-21Jという活版印刷機を体験で使わせていただいたり、 活字工房のブースでは長居させていただき、 これが「母型で…」と様々な実物を拝見してきました。

さて、今回発見したことは 「活版印刷は決して絶滅しないだろうな」 ということ。

むしろ、アートや、アンティーク調のステイショナリーの分野とタッグを組んで存在感を増している。人々の懐古趣味的なところをうまくくすぐりつつも、それにとどまっていないで、新たな表現の可能性を提出しようとしていた。

立花ゼミの開かれ方

駒場にはいくつか有名なゼミがある。 外にに発信するから有名なものもあれば、 信じられないほど本を読むことで有名なものや 積極的に遊びまくることで有名なものまで。

それらゼミの中で立花ゼミはいわゆるセレクションを行わない(本当は行ってるけど、後述)。 通常はゼミを主催する先生が、定員を定めて、面接や志望動機書でセレクションするらしい。けれどどうやら立花ゼミにはそんなものは存在しない(と思っていた)。自分もされなかったし、新しい人が入ってくるときもしなかった。

けれど、不思議なことに常に「まぁそれくらいが適正か」という人数の「こやつやるなぁ」という人が所属している。となると、やっぱりなんらかの形でセレクションが行われているのではないか、と想像を働かせたくなるのが世の常である。 おそらくその正体はナチュラルセレクションだと思われる。自然選択もしくは自然淘汰。これは非常に合理的なセレクション方法ではなかろうか。 もちろんコストはかかる。たくさん新入生などを集めて、説明し、ささやかにではあるがごちそうしなくてはならない。しかも、そのうちの過半数はゼミに残らず去る。 それでもナチュラルセレクションというセレクション方法を取るのは、その精度が最も高いからに他ならない。将来なにかしら、しでかすであろう人を取りこぼすこともなく、在籍しても何もしない人は自ずと去る。 それから、淘汰されずに残ってはいるものの、まだ何もしていない人のことも忘れてはいけない。そういう人たちは確実にこれから何かをやる。自分がナチュラルセレクションの結果生き残った理由を作らなくては、と思うから。 だから立花ゼミは来る者を拒まないし、去る者を追わない。それがスタンスというか、ゼミ生みんなで(密かに)やってるセレクションなので。

ちなみに、ぼくはこの最後のケースでした(笑)

新入生向け冊子の紹介文について

立花隆ゼミナールサークルの紹介冊子に寄稿させてもらいました。 その際、ソースの確認を怠り、出典を載せないまま紹介文を提出する、という不正を働いてしまったことを、この場で謝らせてください。申し訳ありませんでした。

それから、紹介文は旅行中教えてもらった話がもとになっている(そのことすら明記されていなくて、ごめんなさい)ので、テクニカルタームを使って書いているものの、典拠の論旨とは異なっていることをことわっておきます。

参考までに、ソースについての簡単な紹介を記しておきます。

まず、「……からの自由」と「……への自由」はエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』において用いている言葉です。 時代が下るにつれ人々は、氏族・教会・社会的階級などの絆から自由になった(「……からの自由」)。しかしそれは、裏を返せば孤独に なることでもある。個性を放棄することなく孤独を回避するには、愛情や生産的な仕事という自発的行為(「……への自由」)で 新たな絆を築くしかない。ところが、経済的、社会的、政治的要因が、それを妨げるとき、人々にとって自由はたえがたい重荷になる。こうして、たとえ自由を失っても、自由から逃れ、孤独から救い出してくれるものに服従しようとしてしまう。[E.フロム,S26, pp.34-49]

もうひとつ、「積極的自由」と「消極的自由」はアイザイア・バーリンの講演「二つの自由概念」(『自由論』収録)で論じられています。ちなみに主にJ.S.ミルを始めとする様々な思想家に言及しつつ「自由」に関する議論を整理しています。 自由には二種類ある。他人に干渉されない「消極的自由(liberty from)」と自律し主体的に行為する「積極的自由(liberty to)」である。大まかには、前者はイギリス系、後者はヨーロッパ大陸系の思想家によって説かれてきた。両者は、一方の自由を確保しようとするともう片方の自由が阻まれ、相対立してしまう。特に、「積極的自由」の肯定は消極的自由を犠牲にし、全体主義や パターナリズムに繋がる危険性を排除できないと考え、「消極的自由」の確保が必要だと結論付ける。[I.バーリン,1971, pp.295-390]

参考文献

E.フロム『自由からの逃走』日高六郎訳、昭和26年、東京創元社 I.バーリン『自由論』小川晃一・小池銈・福田歓一・生松敬三共訳、1971年、みすず書房 「消極的自由」(2010年4月10日 (土)0:30 日本時間)『ウィキペディア日本語版』。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%88%E6%A5%B5%E7%9A%84%E8%87%AA%E7%94%B1

今後、記事執筆の際はもちろん、ものを書くにあたって一層気をつけてまいります。

文学企画年度末決算

年度末です。

いろいろなところが「今年度中に消化しておかねば!」ということをせっせせっせと胃腸を動かしてがんばっています。

見聞伝、文学企画とて例外ではありませぬ。

本当は「ゼロ年代のインタビュー記事はゼロ年代が終わるまでに」と思っていた時期もあったのですが、やはりずれ込んでしまいました。

「こんなことをしました、記事は乞うご期待!」と宣伝していた方々には申し訳なく思っています(汗)

「こんな一気に大量の記事あげられると圧倒されて読む気が…」と思われそうな気もしますが、ちらりちらりと、雑誌を読むように見ていると、気がついたときには全部読んでしまっていた!なんてなるといいなぁ。

しかし、インタビューや対談の編集・構成はなかなか骨の折れる仕事なので、これから学ばねばならぬことも多々。もちろんベストを尽くして書いていますし、記事によってはインタビューを受けてくださった上、校正までしていただいているので、ちゃんと読めるはず。

 

まだあがっていませんが、近日中にあがる、ファウスト編集長太田克史さんインタビュー記事は必見です。(言い出しっぺの自分で言っちゃいます)

勉強になるのはもちろんのこと、なんと 笑 え ま す !

 

乞うご期待(今度こそ)!

元旦に計はたてない

あけましておめでとうございます。 みんなにとって大変な年末も無事に乗り切り、穏やかに年越ししておりました。とりあえず新年はスタードダッシュはしません(笑)

一年の計は元旦にあり

という言葉に何年だまされ続けてきたことか。 1月と4月は力んじゃだめです。空振り必死だから(笑) 今年は毎週2冊ずつ本を読もう。 忙しくても週1本は劇場で映画を見よう。 毎月3万円ずつ貯金してゆこう。 などなど、今月が終わる前に立ち行かなくなることは目に見えている。 変な力を自分に加えず、ゆったりと暮らしていると 2月頃には自然と何かやりたくなってきて、 普段であれば手をつけなかったようなことをしだしてしまう。 読まなきゃと思って読んだ古典は面白さ半減。 気になって手に取った古典は何かの起爆剤。

それをじっくり待ちつつひなたぼっこをしよう。

(けどこういうことばかり書いてると、常に必死にがんばっている人たちから白い目で見られてしまう。)

文字起こし

これがなかなかつらい。 森見登美彦先生(本人は「森見さんと呼んでくれ」といってくれる)へ取材に行ったときの文字起こしがなかなか進まない。

聞くところによれば1時間分の録音を文字起こしするのを5000円で請け負うところもあるのだとか。 まぁ、それだけしんどい仕事ですわな。

しかし、やはり森見先生のお言葉。 取材中聞いているだけで勇気が湧き、自分も何かしらを書きたいと欲求させてくれた。その録音を聞きながらキーボードを打ち鳴らす。なんとも楽しい時間ではあります。

このままでは年内に終わらぬ。 年越し文字起こし(妙に語感が良いな)にならぬようがんばるだけです。

護国寺講談社

今日はファウスト編集長の太田克史氏への取材。 ゼミ生2人とともに護国寺を訪ねた。

太田克史氏は自らは語らないようなことはこぼすように、日頃口には出さず飲み込んできたものは晴らすかのように、様々な事柄について、セーブすることなく語ってくれた。

取材序盤で、我々が氏のスタンスについて、大いなる誤解をしていたことが発覚し、戸惑った。そう。太田氏は脈々と流れる文学史に反旗を翻そうとしているのだろうという我々の予想を裏切り、迷走気味の文学界の将来像について熱く語っていただいたのだ。

本当にありがとうございました。

他にも今日は、いい一日だった。

明日からはParkerに加えてCROSSを使おう。

出版点数クロワッサン

 

出版点数が恐ろしいまでに増加した。

 

 

その数は、一人の人間が読み切れる分を遥かに凌駕し、かつ内容は、全て読み切りたいと思えるほどではない。

出版社の売り上げは落ち込み、派手なキャッチコピーの帯をまとった、あっという間に読めてしまう本を大量散布するしかなくなっている。中高生はリーダビリティの高い本(すらすら読める本)に群がり、ラノベを買い漁る。ブックオフが繁盛する。

 

漠然と「こんなんでいいのか」と思わずにはいられない。最後に何度読み返したって良いと思える本が出版されたのはいつか。話題性でベストセラーが作り出され、数ヶ月で飽きられ、店頭に並ばなくなる作家が何人いることか。数あまた乱立する文学賞受賞者のうちどれだけの作家の名前が3年後読者の記憶に残っているか。そんなつらい状況で文筆を生業としている人たちはどう感じているんだろう。編集者は?

 

現在の出版界は苦しい状況に置かれている(と関係者は語っている)。しかしこれは単に出版社が悪いのでも、本が売れない状況が悪いのでもない。突き詰めて考えれば、そんなちっぽけなことではなくて、日本の文学界の未来がなかなか見えてこないことが問題なのだ(と思う)。

 

日本のこれからの文学を担うのが天才小説家か、敏腕編集者か、新進気鋭の批評家かは分からない。ただ、現状に辟易し自らの延命措置しか取っていない人々は「消費財」としての作品を提供し続けるだけだ。なんとかしたいなら、未来を望んでみなくてはならない。

 

ただ、一抹の不安がよぎる。この先には文学を消費すべき時代が待ち構えていたりして(汗)

いのち短し恋せよ乙女

11月19日、文学企画は某所で小説家の森見登美彦先生に取材を行った。風邪気味でいらっしゃったのに時間を割いていただき、大変素敵なお話を聞かせていただいた。ここでのこれ以上のコメントは控えておこう。

森見登美彦は、一時期東大駒場生協の売り上げワンツースリー全て氏の作品でブロックしていたほど学生に人気の作家である。 取材の内容は今月中に本家「見聞伝」にアップされるはずであるので、そちらをお楽しみに。あくまでも「はず」です。

ところで、このところ取材に繰り出したゼミ生がその後ぱたりぱたりと床に伏すという怪現象が起きている。

まさか?

もちろん、単に風邪が流行る時期にしかるべく風邪に罹っているだけである。ぼくも例外ではない(汗) ごほごほ。

そんな交代で療養生活を送るぼくらを見て、喜ぶ人がいる。熱狂的な森見登美彦ファンの女の子である。彼女はぼくらを見ては「森見風邪?」と目を輝かせながら訊ねてくる。その目の輝きは明らかに羨望の眼差し。

久々に、恋する乙女を見た。