なんだかんだ言っておいて、ゼミの活動報告に過ぎなくなっているこのブログ。時間がないのを言い訳にしていい時代は過ぎ去ったとわかっているけれど。
しかし時間がない。もう大学生活の八分の一が終わるかと思うと、虚無感以外なにも襲ってこない。
今日も活動報告になる。重度障害者施設、あけぼの学園の見学の報告である。
実際の見学はだいぶ前だったのだけれど、なんだかんだで考えがまとまらず、文章にできなかった。そうはいいつつ今日の記事も全くまとまってはいないのだけれど。
重度障害者施設。その響きは僕にとって、とても冷たく、重かった。
見学当日の朝、正直な話、とても気分が重かった。これから訪れる場所はどこなのだろう。何があるのだろう。いつの間にかそこを自分と関係の無い場所だと考えている自分に気付き、辟易する。政治的に正しくない(politically incorrect)から、ということではなくて、ただ僕という人間があまり道徳的に成熟していないからだ。
それでも待ち合わせ場所から施設に向かって歩き始め、他の参加者と話しているうちに気分は落ち着いてきた。施設前の公園。あまりに日常的なその風景に、急にひどく疎外感を覚え始めた。四葉のクローバーを探すうちに、四葉のクローバーがないことにいつの間にか安心感を覚えていた。四葉のクローバーを探すのではなく、四葉のクローバーがないことを確認していた。
幼稚園児が元気に走り回っていた。
時間が来て施設に入り、話を伺う。どのような施設なのか。どのような方がいるのか。周囲はどう見ているのか。まさに僕はその最も嫌うところの人間なのかもしれないと感じ始めていた。
見学を始めた。サッカーをやっている。もちろん自分ではほとんど動けないのだから、スタッフが抱きかかえてハンモックに乗せ、揺らしてボールを「蹴」らせた。衝撃だった。頭ではわかっていたけれど、「動けないとはこういうことだったのか」。
ダイアログインザダークでの体験が脳裏をかすめる。あそこでは「欠如」 を通して「満足」を理解した。ではここでは、何が「欠如」しているのだろう。
ふと下をみると、すぐ近くに横になっている人がいて、こっちを見ていた。彼は世界に働きかけていた。声はないし、動きもない。それでも視線があった。その視線によって、きっと声を出せ動ける僕たちよりも、強い力で世界を呼んでいた。
一時間ほどの中断(また別の話を伺うことができた)をはさみ、食事の様子を見ようと、再度見学を始めると、彼は僕を見つけた。僕を見ていた。勘違いかも知れないけれど、彼は僕に何かを訴えかけているようだった。
生憎食事はだいたい終わってしまっていたが、これ以上なく動物的な活動への対処を目の当たりにすることができた。彼らは閉じた世界にいるのではなくて、むしろ開かれた世界にいるのではないだろうか。そう、思えてきた。
横のもっと小さな子供たちにも会うことが出来た。先の幼稚園児が思い出された。しかし、僕にはどっちが日常で、どっちが非日常なのかを判断することはできなかった。そこには紛れもない「日常」があった。
最後にもう一度話を伺った。石原都知事の話を聞きながら、僕は正直にいって混乱していた。僕の今の気持ちは何なのだろう。石原さんの混乱がよくわかった。別に彼らの人権を疑ったわけではない。むしろ人権がなんなのかわからなくなっていて、彼らに人権がないのだとしたら、僕たちにどうして人権はあるのだろう、と考えていた。別に積極的に擁護するわけではないけれど、きっと石原さんは彼らの人権を疑ったわけではないと思った。
外にでると、少し雨が感じられた。彼らはこの雨をどのように感じるのだろうか。
重度障害者施設。その響きは、僕に世界の広がりを感じさせた。