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戸塚洋二先生追悼シンポジウム @ 安田講堂

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安田講堂にて

安田講堂にて

東大に既に2年以上も在籍していたというのに、まだ安田講堂に入ったことがなかった。今日、やっと入ることができた。

今日、戸塚洋二先生の追悼シンポジウムに出席した。小柴先生と小林先生、ノーベル賞受賞者が2人も集い、今更だが、戸塚先生の強いリーダーシップが、いかに素粒子研究を発展させたか、その業績がありありと伝わってきた。

小柴先生:「戸塚君、君と過ごした半世紀はとても楽しかったよ

あと1年ちょっと生きていれば、ノーベル賞が獲れたのに・・・と言われていたが、そんなことよりも、たぶん戸塚先生は、もっと研究して、もっともっとたくさんのことを解き明かしたいと、そしてたくさんの優秀な科学者を育てたいと、思っていたに違いない。

戸塚先生:「小柴先生はカミオカンデを作り、私はスーパーカミオカンデを作った。次は君たちの番だ。いつまでもスーパーカミオカンデに頼っているわけにはいかないのだから

戸塚先生が研究所の仲間に残した言葉が中畑先生から紹介された。科学のすべての分野に通じる話だと思う。

戸塚先生:「測定器を作るには、装置の設計や、エレクトロニクス、コンピュータの資金集めと政治交渉その他諸々をやらねばならない。物理をやるのはほんのわずか。いろいろやるから楽しいんだよ。物理だけなんてやってられない

自分が動くか動かないかで、日本の素粒子研究の明暗が分かれてしまう。そんな重責を最後まで果敢に担い続けた人物がいたことで、世界最高水準の素粒子研究の「畑」は守られてきたのだ。

どうしてだろうか。「お疲れ様でした」という言葉を、軽々しく戸塚先生にかけることはできない気がする。たぶん、先生には似合わない。「後は任せてください。しっかりやってみせますから」という言葉を、先生はきっと一番喜んでくださるだろう。

戸塚先生の生き方は、おそらく僕がこれからどんな畑に飛び込んでも、目指すべき理想として僕の中にとどまり続ける。

その生の最後の最後に、無知な一学生である私の無謀なお願いを聞き入れてくださり、お話を聞かせてくださる機会を与えてくださったこと、改めて心から感謝したい。

夜中の電話にドキリ

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電話中。

電話中。

皆さんは夜中に電話を受けることがあるだろうか。

僕は、そのほとんどは家族か親しい友達からなのだが(残念ながら恋人はいない)、立花ゼミでは時々「立花隆」からの着信があり、ドキリとすることがある。たいていは、ゼミ長か、立花先生が絡む企画の責任者が電話を受けるのだが、時間は夜の10時11時くらいはざらである。僕が知っている「最遅」記録は、前ゼミ長の関君にかかってきた物で、夜中の2時という記録がある。僕は幸か不幸か、日付が変わってから電話があった覚えはない。

立花ゼミが抱える大きな行事が迫ってくると、時々立花事務所に緊急招集がかかることがある。僕が経験した中で、一番激しかったのは07年度の五月祭で、夜中の10時ころに電話があり、事務所に出かけて行って、そのまま夜を徹してWeb制作を行った。気づいたら朝の4時ころになっていて、先生が事務所の3階から降りてきて声をかけてくださって、一緒にいた先輩と共に夜食をジョナサンでご馳走していただいたことがある。当時はいっぱいいっぱいで大変だったが、今となっては良い思い出だ。

企画の直前まで準備を放っておくとこうなるので、それ以後は僕も学習し、「何日までにこれ、何日までにこれ・・・」とあらかじめ大まかなスケジュールをFAX等で伝え、必要であればこちらから、時間を作ってもらえないか先生にお伺いを立てることにした。幸い、そのあと関わった企画では、立花先生に引っ張ってもらうという状況にはならずに済んだ。・・・というか、そもそも学生の企画なのだから、立花先生にスケジューリングを任せるのは不謹慎な話であるのだが。

僕ら学生も、最初のうちはまだまだ修行が足りない。少しずつ、うまくやる方法を見つけ出し、成長していくのだ。

「優しい記事を書く」

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略す勇気

略す勇気

「優しい記事を作ろう」
これは、僕が「見聞伝」に入ってずっと念頭に置いてきたことだ。この方針は、2007年度のゼミ長・酒井さんが言った何気ない一言に端を発している。
『東大生って、自分が世間の標準から外れた世界にいることを、ほとんど自覚していない』
駒場の駅の階段を下りながら、酒井さんがしみじみと発した言葉を、今でもはっきり覚えている。

自惚れといわれるかもしれないが、(そして、確かに少し自惚れているので批判は甘んじて受けたいが、)東京大学は、学問に関しては「優秀」な人間の集団であると思う。これは悪いことではない。そういう場所として東大があるのだから、当然のことだ。
だが、そんな僕らが、学外の(これから学問に足を踏み入れようとしている)人に何かを伝えようとするとき、僕らが普段の感覚で記事を書き、説明したのでは、到底伝わらない。
 
つまり、読み手が自分の属する集団でないというのなら、相手のいる立場を理解して、「優しい」記事を書かなければならない。サイトで発表する記事が、学内で提出する文書や授業のプレゼンテーションとは、全く別の性質を兼ね備えなければならないということを自覚すべきだ。

どこまで妥協して、わかりやすさと情報の質を両立するか。これこそが、一つのメディアの永遠の課題であり、これを追求し続けることが、各分野の最先端を言葉で伝える人間の資格でもあると思う。

だが、さらに悪いことに、僕らは、読み手を軽く見てはいけないと思って、自分の力の及ぶ限り、一生懸命に説明を繰り返して、「何がなんでも自分の思っていることを伝えよう」と奮闘してしまいがちだ。特に、学問分野を取材した記事や、自分で問題提起したプロジェクトの記事では、厳密さや正確性を追求して、網羅的な記事になる傾向がある。もちろん、同じ学問分野の人に向けた議論ではこれで一向に構わない。だが、毎日何時間も学問に時間を費やせる人間は、この世の中のほんの一部だ。広く一般に向けた記事では、場合によっては、難しくなりそうな部分を削ったり、ぼやかしたり、天下り的に説明したりして、読み手にわかりやすく伝わる文章にするよう努力すべきである。そうでなければ、「伝えるプロ」たりえない。自分の取材量や勉強量に、記事の文章量が比例する人は要注意である。

なお、これは、別に学問に限ったことではない。たとえばプロのサッカー選手がちびっこサッカー教室に招かれたら、高度なテクニックを教えてもほとんど無意味だ。誰も聞く耳を持たないで終わってしまうだろう。だから、ちゃんとした、思いやりのあるサッカー選手なら、きっと自分のレベルをかなりセーブして練習メニューを作ったり、小さい頃の自分がどういう練習をしていたかを話すなど、その場にいるみんなが楽しめるような環境を作ろうと努力するだろう。たとえそれが、自分の「優秀な」能力と全く釣り合わないレベルのものであったとしても。

早い話が、自分にうぬぼれるな、ということだ。読み手は、誰が記事を書いたかとか、そいつの能力はいかばかりか、とか、そんなことは気にしない。記事は自分の能力を評価してもらうために書くのではない。これだけ取材しました、これだけ勉強して、調べて、がんばって記事にしました、ということを主張するような記事は三流だ。

もっとも、僕もどこかでそんな記事を書いてしまっている可能性も大いにあるわけだし、そもそもこの議論に明確な答えなどない。だが心掛けは大切だと思う。

注)文中の「優秀」は、単に「得意」という意味で使った。外部からはよく「優秀」というレッテルが張られるため。