Add a comment 5 月 12th, 2009 by 栄田 康孝

決して広くはないね。
小学校に入りたての頃は、体格がいい子をデブとか言ってからかう人が、必ずクラスに一人や二人はいた。(最近はどうなのか知らないが、少なくとも僕が小学校の頃は、ある程度の頻度で飛び交っていた言葉だ。) だが、先生が聞きつけると厳しく注意するので、無意識のうちに、「体型のことで差別しちゃいけないんだ・・・」と思うようになっていた。
しかし、社会に目を向けると、子供のころは当然だと思っていたそういう原則が通用しない例も数多い。
米航空会社大手のユナイテッドは15日から普通の座席では座ることができない肥満客には2人分の座席料金を請求する方針を決めた。
シカゴにある親会社UALによると、肥満客が隣に座ることで自らの座席が侵害されるとの苦情が700件も寄せられているとして、こうした方針を打ち出したという。(世界日報:2009年4月16日)
厳しい話だ。要するに、「肥満で隣の客に迷惑をかける恐れのある方は、2席分払って座席を取らないと乗せません」というわけだ。立派な体型による差別である。しかし、これは理にかなっている、とも言えなくもない。
現に、Yahoo!のニュースにこの記事が出た際には、「仕方のないこと」「当然だ」という意見が多くの同意を受けていた。
飛行機というのは、バスや鉄道、船舶と違って、かなりコストのかかる輸送手段なので、本来、輸送するものの大きさと重さは、数センチメートル、あるいは数キログラムの単位で料金に利いてくるものなのだ。輸送物が人間の場合は、人権という盾である程度は守られるが、アメリカでは肥満人口の増加に伴い、とうとう見過ごせなくなった、ということだろう。
特にエコノミークラスの場合は、低コストの運賃を提供しようとするために、座席が広くできないので、そうなると、こういう制限を設けざるを得なくなってくる。簡単に「2倍の運賃」と言うけど、たとえば急な出張で、正規運賃で東京-ニューヨーク間を往復・・・なんてことになると、40万円以上も追加で支払わなければならないのだ。これは正直、笑えない。肥満が社会問題化するアメリカでは、こういった新たな問題が次第に浮き彫りになっていくことだろう。
・・・ちなみに今日、こういう話題を持ち出したのは、英語2の授業の予習がてら、「Super Size Me」というアメリカのドキュメンタリー映画を見たからである。僕のほかにゼミ生二人も見たので、似たようなことが他のブログでも書かれるかも。なかなかおもしろいドキュメンタリーなので、興味がある方はレンタルしてみてください。
2 Comments 5 月 10th, 2009 by 栄田 康孝

07年 五月祭
07年の東大5月祭。立花ゼミでやるシンポジウムの準備に追われ、僕は連日の徹夜明けで、当日を迎えた。
企画参加登録者の名簿を他のゼミ生に託し、僕は立花先生から入るパワーポイントの修正依頼に、直前まで対応していた。
本番の2時間くらい前にようやくひと段落したので、来場者の受付に応援に駆け付けた。そしたら、名簿を託したはずのゼミ生が寝坊して来ていない。電話をしても通じない。来場者からは、「ちゃんとやれよ!」と怒鳴られる。自分の仕事はちゃんとやってるし、お金をもらって仕事をしてるわけでもないけど、でも当然関係者だから、「申し訳ございません」と頭を下げて、黙ってお叱りを聞くしかない。
僕が立花ゼミの企画の前に、念には念を入れて、「ちょっとやりすぎだろ・・・」と思われるほど、バックアップ機材の準備をするのは、こういった経験が生きている。おかげで、その後の企画では、だれかが寝坊してきたり、持ってくるはずの録音機がなかったり、カメラがなかったり、電池が切れていたり・・・といったトラブルはあったが、すべてバックアップを立てて問題なく乗り切ることができた。
どんなにつらい状況に追い込まれても、そこで、なお外部の人の意見や叱咤を聞く姿勢があれば、次につながる。しかも、慣れてしまえば、そんなにストレスにもならない。そういう姿勢と気持ちの持ち方は、きっと将来に役に立つと思っている。
・・・なーんてね。ちょっとまじめなことを言いました。すいません。本当のところ、基礎的な学問の知識と教養がない僕は、場当たり的にこれくらいしかできることがない(笑) しかも、社会に出た方は、当然のごとくやってることだし(汗) お粗末さまでした。
Add a comment 5 月 3rd, 2009 by 栄田 康孝

電話中。
皆さんは夜中に電話を受けることがあるだろうか。
僕は、そのほとんどは家族か親しい友達からなのだが(残念ながら恋人はいない)、立花ゼミでは時々「立花隆」からの着信があり、ドキリとすることがある。たいていは、ゼミ長か、立花先生が絡む企画の責任者が電話を受けるのだが、時間は夜の10時11時くらいはざらである。僕が知っている「最遅」記録は、前ゼミ長の関君にかかってきた物で、夜中の2時という記録がある。僕は幸か不幸か、日付が変わってから電話があった覚えはない。
立花ゼミが抱える大きな行事が迫ってくると、時々立花事務所に緊急招集がかかることがある。僕が経験した中で、一番激しかったのは07年度の五月祭で、夜中の10時ころに電話があり、事務所に出かけて行って、そのまま夜を徹してWeb制作を行った。気づいたら朝の4時ころになっていて、先生が事務所の3階から降りてきて声をかけてくださって、一緒にいた先輩と共に夜食をジョナサンでご馳走していただいたことがある。当時はいっぱいいっぱいで大変だったが、今となっては良い思い出だ。
企画の直前まで準備を放っておくとこうなるので、それ以後は僕も学習し、「何日までにこれ、何日までにこれ・・・」とあらかじめ大まかなスケジュールをFAX等で伝え、必要であればこちらから、時間を作ってもらえないか先生にお伺いを立てることにした。幸い、そのあと関わった企画では、立花先生に引っ張ってもらうという状況にはならずに済んだ。・・・というか、そもそも学生の企画なのだから、立花先生にスケジューリングを任せるのは不謹慎な話であるのだが。
僕ら学生も、最初のうちはまだまだ修行が足りない。少しずつ、うまくやる方法を見つけ出し、成長していくのだ。
Add a comment 5 月 3rd, 2009 by 栄田 康孝

4月、新入生が駒場の空気に戸惑う頃
駒場キャンパスの正門を入って右手にある見事な八重桜。
写真を撮っていたら、偶然ゼミ生の山本君と出会った。「まさかずっと写真撮ってるんですか?」と言われてしまった(笑)
え、そういうキャラ定着!?
この桜の樹の下で、よくゼミ生と遭遇する。今年は昨年よりさらに多くの人が入ってきてくれて、さらにキャンパス内遭遇確率が上がったな。もし僕を見つけたら、ヘンな先輩だと思わず(・・・いや、実際ヘンな先輩だが、怖がらずに)気軽に声をかけてね! ・・・用事があれば。
Add a comment 5 月 3rd, 2009 by 栄田 康孝

授業での立花先生
ゼミに入って最初にページを作るとき、立花先生の名前を記事中に書こうとして、どう呼べばよいか小一時間悩んだ覚えがある。
「立花隆さん」・・・これは、なんか立花ゼミのサイト内で使うと、外部の人間が記事を書いているような印象になる。僕はゼミサイト内ではあまり使わない。
「立花先生」・・・これは、学生視点の記事である場合は、よく利用する。尊敬するというよりは、ゼミで普段「立花先生」と親しみをこめて呼んでいるのをそのまま流用した形だ。個人的には、最も抵抗がなく、使いやすい。
「立花隆氏」・・・別にかまわないのだが、立花先生に親しみを感じてくると、ちょっと固い感じがして、僕はあまり使わない。
「立花隆」・・・客観的なレポート記事などでは、僕はよく使う。通常、身内の人間は呼び捨てにする。社員が自分の社長を呼び捨てにするのと同じだ。「学生なんだから、先生には敬称をつけよ」という批判もあるだろう。だが、立花先生は、先生という以前にジャーナリストだから、先生、先生、と連打すると単なる立花隆のファンサイトっぽくなる可能性もある。前々ゼミ長の酒井さんは、公の場で発言するときは呼び捨てにしていた。
「立花隆教授」・・・これは僕の中ではありえない! 特任教授なのでウソではないが、・・・なんか似つかわしくない。他でもこういう呼び方は見たことないし、ゼミでも呼ばない。
う~ん、難しい・・・。明確な答えが出たわけでなく、やっぱり場合によって使い分けてしまう。
Add a comment 5 月 3rd, 2009 by 栄田 康孝

戸塚洋二先生
戸塚洋二先生は、ノーベル賞目前と言われた、たいへん偉大な素粒子物理学者で、立花ゼミは昨年6月25日に、ご自宅でインタビューさせていただいた。その業績は言うまでもなく、一人の人間としても、その生き方には感銘を受けた。
残念ながら、インタビューのわずか2週間後に癌で亡くなられたが、今思い返しても、ご体調がすぐれない中、本当に貴重なお時間を割いていただき、心から感謝している。
その、戸塚先生を偲んで、記念シンポジウムが、来る2009年6月9日、東京大学安田講堂にて開催される。公式ページは下記のアドレスである。
http://www.icrr.u-tokyo.ac.jp/tribute_yoji_totsuka/
素粒子に興味のある方、ぜひ参加されてみては。
Add a comment 5 月 3rd, 2009 by 栄田 康孝

略す勇気
「優しい記事を作ろう」
これは、僕が「見聞伝」に入ってずっと念頭に置いてきたことだ。この方針は、2007年度のゼミ長・酒井さんが言った何気ない一言に端を発している。
『東大生って、自分が世間の標準から外れた世界にいることを、ほとんど自覚していない』
駒場の駅の階段を下りながら、酒井さんがしみじみと発した言葉を、今でもはっきり覚えている。
自惚れといわれるかもしれないが、(そして、確かに少し自惚れているので批判は甘んじて受けたいが、)東京大学は、学問に関しては「優秀」な人間の集団であると思う。これは悪いことではない。そういう場所として東大があるのだから、当然のことだ。
だが、そんな僕らが、学外の(これから学問に足を踏み入れようとしている)人に何かを伝えようとするとき、僕らが普段の感覚で記事を書き、説明したのでは、到底伝わらない。
つまり、読み手が自分の属する集団でないというのなら、相手のいる立場を理解して、「優しい」記事を書かなければならない。サイトで発表する記事が、学内で提出する文書や授業のプレゼンテーションとは、全く別の性質を兼ね備えなければならないということを自覚すべきだ。
どこまで妥協して、わかりやすさと情報の質を両立するか。これこそが、一つのメディアの永遠の課題であり、これを追求し続けることが、各分野の最先端を言葉で伝える人間の資格でもあると思う。
だが、さらに悪いことに、僕らは、読み手を軽く見てはいけないと思って、自分の力の及ぶ限り、一生懸命に説明を繰り返して、「何がなんでも自分の思っていることを伝えよう」と奮闘してしまいがちだ。特に、学問分野を取材した記事や、自分で問題提起したプロジェクトの記事では、厳密さや正確性を追求して、網羅的な記事になる傾向がある。もちろん、同じ学問分野の人に向けた議論ではこれで一向に構わない。だが、毎日何時間も学問に時間を費やせる人間は、この世の中のほんの一部だ。広く一般に向けた記事では、場合によっては、難しくなりそうな部分を削ったり、ぼやかしたり、天下り的に説明したりして、読み手にわかりやすく伝わる文章にするよう努力すべきである。そうでなければ、「伝えるプロ」たりえない。自分の取材量や勉強量に、記事の文章量が比例する人は要注意である。
なお、これは、別に学問に限ったことではない。たとえばプロのサッカー選手がちびっこサッカー教室に招かれたら、高度なテクニックを教えてもほとんど無意味だ。誰も聞く耳を持たないで終わってしまうだろう。だから、ちゃんとした、思いやりのあるサッカー選手なら、きっと自分のレベルをかなりセーブして練習メニューを作ったり、小さい頃の自分がどういう練習をしていたかを話すなど、その場にいるみんなが楽しめるような環境を作ろうと努力するだろう。たとえそれが、自分の「優秀な」能力と全く釣り合わないレベルのものであったとしても。
早い話が、自分にうぬぼれるな、ということだ。読み手は、誰が記事を書いたかとか、そいつの能力はいかばかりか、とか、そんなことは気にしない。記事は自分の能力を評価してもらうために書くのではない。これだけ取材しました、これだけ勉強して、調べて、がんばって記事にしました、ということを主張するような記事は三流だ。
もっとも、僕もどこかでそんな記事を書いてしまっている可能性も大いにあるわけだし、そもそもこの議論に明確な答えなどない。だが心掛けは大切だと思う。
注)文中の「優秀」は、単に「得意」という意味で使った。外部からはよく「優秀」というレッテルが張られるため。