祭の裏側で
June 3rd, 2009 by 雨宮 新
五月祭でクラスやサークルの仲間と模擬店を出して楽しんだ人も多いだろう。
利益や味や効率がどうとか、余計なことを考えるのは祭りにはそぐわない。気の合う仲間と一緒に、夢中になって看板を作ったり、一日中焼きそばを焼いたり、呼び込みをしたりというのもまた大学生の思い出としては悪くないだろう。
ただ忘れないでほしい。
模擬店を出す楽しみのひとつは、「ものを生産して、売って、消費する」ということを擬似的に体験できるところだと思う。
でも、その先にある「廃棄」というプロセスを体験することは、大半の人は、ない。
模擬店で出たごみは集積場に持っていって、あとは誰かがやってくれることになっている。自分達が考えるのは分別をちゃんとして集積場にいる人に渡すところまで。その先は考えなくていい。
だけど、「その先」を引き受けている人が、確かにいる。
五月祭委員会の中に、「エコプロジェクト」という、祭りで出るごみ対策を一手に引き受ける組織が存在するのを知っている人は、どれだけいるだろうか。
学園祭の裏側で、大量に集められたごみを分別し、集積し、翌朝にやってくる収集車に積み込むという作業をひたすら行う人たちである。
学園祭の環境負荷の低減には、できる限りの努力がされている。
たとえば容器にしても、再生原料で作ってあり、古紙と同じようにリサイクルできるようなものを選び、模擬店で使うものはそれで統一されるようになっている。
来場者の捨てるごみは十何種類にも細かく分別される。種類別に並んだごみ箱の後ろには分別を指導するための人員も用意されている。
そうして徹底的に分別されたごみは翌日の早朝に収集車によって運ばれ、可能な限りリサイクルされて、資源に生まれ変わる。
そうしたひとつひとつの作業に、関わっている人がいる。
僕も一年生の頃からずっと関わってきた。分別の項目分けや、人員の配置や、広報のしかたを考えたりしてきた。
でも、本音を言うと、「リサイクルという素晴らしい取り組みを学園祭という身近な場でもっと進めていくべく、これからも頑張って活動して行きたい」とか、
そんな綺麗なことはいえない。
正直言って、本質的な問題はもっと別のところにあると思っている。
一度だけ使われただけで不要とされて捨てられていく容器包装たち。それらは半永久的に土に帰ることはない。もとの姿には戻らず、かといって再び使われることもなく、埋められていく。
数時間前まで食品として売られていたものが、まだ十分に食べられる状態のまま、生ごみとして大量に廃棄されてゆく。
僕らはそれらを分けて、運んで、積み上げることを繰り返す。
いくらリサイクルされるとしても、「捨てる」という行為をしていることに変わりはない。
「ものを捨てる」という行為に本質的につきまとうやるせなさ、空しさ。
一瞬前まで自分にとって必要なものだったものが、単なる処理されるべき物体になるという、その空しさ。
リサイクルがいくら進歩して、効率化したとしても、それは免罪符となってはくれない。
誰も、現場でごみを処理する仕事に積極的に就きたいなんて思わないだろう。特に東大生なんかは。リサイクルの枠組みを議論する人にはなるかもしれないが、決してごみ収集作業員なんかにはならないだろう。
でも、朝早くから東大生の情熱と享楽の残滓のようなごみの山を処理しに来るのは、そうした作業員の人たちなのだ。
現場にいると、ざらついた現実感と理不尽さに繰り返し襲われる。
現実の圧倒的な重さの前では、理屈で導かれた信念や目標なんて呑み込まれてしまうような気さえする。
それでも僕は現場に居続ける。
でなければ資源とかリサイクルとかを語る資格がないと思うから。
大学に入ってから2年間、環境問題を扱うサークルに入って色んな活動をしてきた。
色んなものを見てきた。色んなことを学んできた。
でも結局一番大事なのは、現場で実際にものと向き合うことだという結論に達した。
農業のバイトに行けば、中国からの研修生が笑顔で農薬を撒いていた。
途上国に行けば、少数民族の子供達が学校に行かず自分のような観光客相手に物売りをして生計を立てていた。
現実を見てしまうのは、多くの場合は空しく、無力感にさいなまれる。
仲間内でして居た机上の議論と目の前の現実を変えることとの間に、恐ろしい隔たりがあるということを思い知らされる。
でも現場を見ることなく机上だけで導き出された論理は、問題を解決するどころか問題の所在を見失って状況を悪化させる危なさを持っている。
「緑の革命」の失敗なんかはその最たる例だ。
きっと僕はこれからも学園祭のたびに集積場で働き続けるだろう。
答えが出なくても、答えの出ない現実の中で自分らが生きているということに向き合うために。
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五月祭のごみ処理、本当にお疲れ様でした。僕も駒場祭で少し手伝ったけど、大変だよね。委員の皆さんには、ほんと、いくら感謝してもしきれないよ。
世の中にある本やメディア、ネット記事などの「伝えるための媒体」には、通常余計な情報は書かれない。だから、たくさん本を読めば読むほど、編者のいいように取捨選択された情報が自分の物となって定着してしまう。(しかも、多くの場合、知らないうちに定着する。) その危険性には、常々気をつけておくべきだよね。
あるアニメーターが言ってたけど、小説ではなんでもない一文が、その場面を絵に書くとなると、関係ないと思ってたことまでいっぱい考えないと描けないらしい。絵や写真あるいは映像が持つ情報量と言うのは、文章とは段違い。僕らも有効に利用したいね。
>栄田さん
確かにおっしゃるとおりです。
写真撮っておけばよかったなと思ってます。