それは貴方の目にもある。 普段気付かないが、確実に存在している。もし貴方の目に盲点が存在しないのであれば、貴方は突然変異か、さもなくば動物界脊椎動物門哺乳綱霊長目ヒト科ヒト属ヒトではない、ということを意味すると思われる。間違ってたらごめんなさい。
そうそう。この盲点、最近では盲班と正式名称が変わりつつあるようだ。大きさのない数学的な「点」を連想すると実体を把握できないから、とか、網膜上の某所を盲班、視野上(人間の認識上)のことを盲点と呼ぶとか、なにやらあるようだが、この記事では盲点で通す。どちらも取り立てて区別しない。それで困らないだろうし。
さて、なぜ盲点は「見えない」のか?勿論「見えない」のは盲点ではなく、盲点の部分が受け取る像、な訳だが、理由を御存知の方はこの節を読み飛ばされたい。当然だが、盲点は人間の眼球の構造から生じている。盲点には視細胞、つまり光刺激を神経に伝える細胞が存在しない。なんでそんなことに成っているかと言えば、極めて不思議なのだが、視神経は視細胞よりも眼球の内側-つまり光を先に受ける側-にある為だ。むしろ分かり難くなりそうな例で説明すると、天井がガラス張りの部屋があって、 床にはデジタルカメラがずらっと敷き詰められている。デジカメからはそれぞれケーブルが生えていて、映像をどこかへ送っている。しかしそのコードはすぐさま床下に入るのではなく、レンズの上を通ったりしながら、カメラの上を這っているのである。そして床に一カ所だけ開いた大きな穴に、全てのケーブルが吸い込まれている。当然、穴の上にはカメラは置けない。この穴が、盲点に当たる。…イロイロと、カメラファンにも、眼に詳しいヒトにも「それは違う」と言われそうだが(…とりあえず網膜でも画像処理してるんだよって話がすっぽり抜けてるし)。
さて下書きを始めてから時間が経ちすぎて、もう何を意図して書き始めたのか忘れかけているのだが…。
気を取り直すと、人間の網膜の構造が現在ある姿なのには、明らかに必然がない。偶然のなせる業である。因みに、頭足類(イカタコ)の眼球は、視細胞が一番内側に配置されている。その結果、盲点も存在しない。先ほどの例えで言えば、カメラはスノコの上に載っていて、スノコの下をコードが這っている。どう考えてもコチラの方が有利だろう。視力の面でも、構造の面でも。もし哺乳類型(脊椎動物型)の眼球に比較優位性があるという情報をお持ちの方は是非教えてください。
で結局何がいいたいかというと…進化の中立性と、我々自身の歴史性である。「適者生存」という言葉が独り歩きして、「進化」というと環境への適合性の向上を意味するかのように扱われることが多いが、「進化」を単なる突然変異による形質転換と定義するなら、別により適合度が上がると限った話ではない。生物なんて死ななきゃいいのである。進化を語る上ではもちろん子孫を残せることは必要だが、そこまで行ければ他の形質よりも多少”性能”が低くたって、取り立てて問題はない。結果オーライである。ある許容範囲内であれば、前世代と次世代の間で先に進むほど適合度が上がるなんて必要はない。許容範囲は環境によって異なるから、南極では狭いし、熱帯では広いと思われる(そうでもないのかな)。利用可能なエネルギーの量っていう単純な発想から。ナイーブ過ぎ?ま、許してたもれ。
進化の中立性を強調すると、偶然の役割が大きくなる。最適だったから生き残ったのではなく、ある範囲の中から、偶然今のタイプが生き残った、ということに。もちろん全体的には、適者生存ではあるのだが、生物というのはそれ程劇的に進化するものではない(コレには難点もあるけど)ので、過去の偶然の選択が、そこから連なる系列に広く引き継がれる。そして生物は使えるものは使い倒すので、同じシステムで行ける所まで行く(これもある意味中立進化のなせる業だろう。常に最適化するのではない)。
さて益々議論は混沌として、着地点が見出せないのだが、強引にHard Landingすると、なんだか合理性とか必然性とか理由とかを求めすぎていて、偶然性や歴史性を置き去りにしたり、なんてしてませんか?