『専門知と公共性―科学技術社会論の構築へ向けて』(藤垣裕子,東京大学出版会,2003)
バイト先の先輩に薦められて読んでみた
「妥当性境界」というものが面白い。言葉の通り、人が妥当だと考える境界を想定する。これを科学者や企業、市民、自治体などにそれぞれ適用することで、各主体の意見不一致が生じる様を妥当性境界の不一致や緩厳関係で記述する。
各者がどのような方向にズレているのかを認識することで、どちらに向かえば合意が形成しやすくなるかという指針を得られるように思えた。
バイト先の先輩に薦められて読んでみた
「妥当性境界」というものが面白い。言葉の通り、人が妥当だと考える境界を想定する。これを科学者や企業、市民、自治体などにそれぞれ適用することで、各主体の意見不一致が生じる様を妥当性境界の不一致や緩厳関係で記述する。
各者がどのような方向にズレているのかを認識することで、どちらに向かえば合意が形成しやすくなるかという指針を得られるように思えた。
AERA3月15日号に載っちゃった。
きっかけは「貧困と東大」ちゃんと立花ゼミの名前も出ている。年収200万でも東大。
新勧の宣伝材料にはちょうどいいかな?
協力してくれたゼミ生、アンケートに答えてくれた三鷹宿舎の学生、何かと助けてくださった立花先生。ありがとうございます。
「知らない」が故に将来を閉ざされようとしている若者に、「貧困と東大」で明らかにしてきたことは、希望の灯を与えられると信じています。
実際には自分でいいのかなぁという思いもある。浪人してるし。完璧には程遠い。そんなやつでもどうにかなってるということで、いいのかなぁ。
他人を動かすのは大変だ。ついついめんどくさがって、自分一人でやろうとしてしまう。しかし、一人じゃできないことのほうがたくさんある。
会議やミーティングをする。何かを決めるために。でも、みんな押し黙っていたり、議論から逸れた雑談が始まったり。そして何も決まらない。
高校生までは自分一人でやるか、大人数でやるとしてもレールがひかれていた。しかし、大学生になって、新しい何かをやろうとしたときにハタと気づく。他人の扱い方をよく知らない。
この本を手に取ったのは立花ゼミの先輩である岩崎さんに教えてもらったから。
ファシリテーションは会議やミーティングなどを円滑に進め、創造的な意見を生んだり合理的なコンセンサスを築くことといえるでしょう。
入門というだけに、ファシリテーションとは何か、どのように使えるか、ファシリテーションにはどのような技術があるか、を順を追って説明している。
ただ、この本を読んだからファシリテーションができるようになるというわけでない。しかし、心構えくらいは身に付くと思う。
会議の中で一人ファシリテーターを置くのもいいが、参加者それぞれがファシリテーションの心構えを持っていれば、より建設的な会議ができるだろう。
会議などに参加する機会のある人(=ほぼすべての人)で進行について教育を受けたことのない人には、流すだけでいいから一度読んでみることをお勧めする。
特に、最後の一章はファシリテーションを導入すればどうなるかを示した架空の会議が紹介されており、ここを読むだけで感じはつかめると思う。
この記事は11月22日に行われた立花隆の講演会「二十歳の君へ」で配布した冊子をお持ちの方に向けて書いています。
冊子2ページに私のエッセイが掲載されていますが、最後の一行が欠落しています。
正しくは以下の通りです。
気づけばまた今年も駒場祭の季節になった。もうすぐ二十一歳になる。
私の二十歳の頃。それは自分をありのままに見ることを忘れ、思い出した一年間だった。
「壁にぶち当たる。」
壁と言う言葉は障害の代名詞としてよく使われる。越えるべきもの、または越えられないものとして扱われている。今回は、「壁を越える」について考える。
あそこへ行きたい。向こうへ行きたい。そう願う人々の前に立ちはだかる障害。それが壁である。壁があるせいであちらへ行けない。
そこで人々は考える。壁を壊せばいいと。叩いたり、体当たりしたり。とにかく壁を壊せば向こう側へ行けるはずだ。
しかし、自分の身体を使って壁にぶつかっていると、ほどなくして限界が訪れる。硬い壁に対して、こちらは生身の身体。壁に傷をつけることも出来ずに脆弱な肉体は限界を迎える。
そこで人々は考える。このままじゃいけない。なんとかしないと。
ふと足元の石ころを拾い上げて壁に向かって投げる。硬い音がする。壁に小さな傷が付く。生身の体当たりではびくともしなかった壁に傷がついた。これでいけるかもしれない。壁にどんどん石をぶつける。たくさんの傷が付く。しかし、壁は破れない。
なんで身体でぶつかった時は壁に傷すらできなかったのに、小さな石ころをぶつけたら傷がついたのだろう。そうか、石ころが硬いからだ。よし、石ころで壁を叩いてみよう。ほら、さっきより大きな傷ができた。人間は経験から学び、未来に活かすことができる。無数の成功と失敗の蓄積が知識となり、人々をより高く、より遠くへ導いてくれる。壁の向こう側へさっきよりも近づいた。しかし、壁は崩れない。
壊せない壁なら登ってしまえばいい。業を煮やした一人がそう考えた。垂直な壁をどうにかして登る。壁が低いのならそれでいいだろう。では壁がとてつもなく高かったら、途中まで登れだとしても上にも下にも動けなくなったら、どうしよう。手足を滑らせれば地面に向かって真っ逆さま。用心深い臆病者は残り、愚かな勇者は壁を登る。壁を登りきったとして、その先なんてわからない。リスクをとって結果を求めるのだ。
なにかしら行動しつづけている間は幸せだ。俺は頑張っている。あと少しだ。そう思えるから。
壁に石をぶつけたら傷が付いた。前進だ。・・・壁を破るのにどれだけ時間が要るのかな?
壁を登ればいい。虎穴に入らずんば虎子を得ず。・・・本当に登りきれるの?
xxすればいい。何か目標があったときに、単純にxxすれば達成できると信じている人々。結局失敗したとしても、彼らの表情は暗くない。むしろ半ば達成感を持っているような。「あんなに頑張ったから仕方ないよ」
壁を越える。壁の向こう側へ。真の目的を忘れ、目の前の手段にのめり込む。手段が目的になる。
間違った今日に満足し、望むべき明日を忘れる。
大学受験のころを考えて欲しい。何時間勉強しただの、何時間しか寝てないだの、努力した自分がかわいくて仕方がない連中があなたの周りにもいたのではないだろうか。だからといって、彼らが特別優秀な成績を収めているわけでもなかったり。本当は、テレビを見ながらCMの間だけ問題を解いていたり、ケータイをいじりながら参考書を眺めていただけかもしれない。塾で友達とおしゃべりした時間も彼らにとっては勉強した時間だったりする。
この例では明らかであろう。何が目的で、本当はどうすべきであったか。受験勉強で必ずしも勉強時間は重要でない。できるようになればいいだけのことだから。時間あたりの生産性を向上させればいいだけのこと。
世の中に吹き荒れる形式主義、事なかれ主義。そのままでもとりあえずの今日はやり過ごせるから、何を為すべきかなど考えない。むしろ、現状を変えようとするものは異端者として冷遇される。誰だって苦しい思いはしたくない。ぬるま湯にずっとつかっていたい。現状を変えなくとも生きていけるのならそれで良いじゃないか。
私たち大学生はこのような風潮を打破しなければならない。私たちが生まれた20年前、日本は傲慢と己惚れによって一寸先に待ち構える暗闇に気づかなかった。 そして今や世界でも有数の経済停滞国である。さらには歴史上未だかつてない超高齢少子社会の道を突き進んでいる。そのような国の「将来を担う若者達」が我々なのだ。
人類史上誰もぶつかったことのない壁が迫っている。 しかし、私たちのなすべきこと、できることはひとつしかない。考えて、行動するのだ。
考えろ。脳ミソから汗が出るまで。
正解などない。先生もGoogleも答えを知らない。私たちが答えになるしかない。
-物理化学
アトキンス 物理化学 上/下 (8th)
¥ 5,985/¥ 6,090
Atkins’ Physical Chemistry (9th)
¥ 6,307
物理化学―分子論的アプローチ 上/下
¥ 5,670/¥ 5,880
Physical Chemistry: A Molecular Approach
¥ 10,856
-無機化学
シュライバー・アトキンス 無機化学 上/下
¥ 6,825/¥6,720
Shriver and Atkins’ Inorganic Chemistry
¥ 5,856
-有機化学
マクマリー有機化学 上/中/下
¥ 4,725/¥ 4,620/¥ 4,620
Organic Chemistry
¥ 12,275
高いよ・・・
日本語版高いし、どうせ論文は英語で書くんだし原著買おうかな。
「一生使えるから、まぁ買いなよ」と複数の教授が言っていた。
9月7日
事前取材もこれで最後。といっても全部で3回しか行けなかったが。今日は見慣れた本郷キャンパスで、東大医学系研究科の宮下先生のお話。
安田講堂のように時代を感じさせる建物がたくさんある本郷キャンパス。最近は土地利用の効率化のために高層建築物も増えてきた。赤門入って右手のビルは経済学部だし、その向こうにある白い巨塔は医学部の建物だ。宮下先生とはここでお会いした。
心や感覚、記憶といった単語から、私たちはその意味とどんな感じのものかがわかると思う。これらの言葉に私たちはとてもあたり前の様に接している。しかし、科学的にはよくわかっていないので・・・というのは今回のシンポジウムはどこも同じ話。
では、「心」だとか「感覚」だとかいったものを科学的に扱うにはどうしたらいいのだろうか。科学的に扱う、科学的手法で調べるということは、実験で検証可能なモデル(仮説)を考えてやって、それをテストするという手順になる。つまり、何か知りたいことがあれば、実験で取り扱う方法を考えてやれば、「脳科学(笑)」と言われずにサイエンスとしての脳の研究ができるのだ。
例えば、東京タワーや国会議事堂を思い浮かべることはできると思う。それもかなり鮮明に。では、東京タワーの鉄骨一本一本まで再現できるだろうか?もっと簡単に、展望台の位置を正確に言えるだろうか?国会議事堂の入り口には柱が何本あるだろうか?テレビや新聞でおなじみのイメージ。かなり鮮明に思い出せるはずなのに、細部を尋ねられた途端にイメージは霞の中へ消えていく。実際に目で見ていることと、見た像をイメージすることは「見ていない」こと以上にどこかしら違うのだ。
また逆に、何かを見る。例えば国会議事堂を見たときに、鳩山首相の顔がパッとイメージに浮かぶかもしれない。ほうれん草のおひたしを見ると母の顔を思い出すかもしれない。記憶の中のイメージが、視覚によって勝手に読み出されることもあるのだ。
それらのイメージがどのように生まれるのか?ヒト以外の動物ではどうか?そのとき神経細胞はどう活動しているのか?
これらの問いに、科学的に扱える適当なモデルを作って検証することで、「見る」ということ、「イメージする」ということを探っていくのだ。
今回の取材を通して強く感じたのが、脳科学者は科学的に真摯であろうとする努力を、一般の人々に向けて話すときは入念に行っているということだった。世の中に科学を絶対視(曲解妄信)する風潮があるが、脳科学は間違った(意図的に間違えた)引用をされやすい。遺伝子によって機能が決まると言うことも、このフレーズだけを抜き取ればくだらない優生学をサポートすることもできる。そしてどのような悲劇が起きたことか。ドイツでは戦後しばらくは人類学ができない雰囲気だったという。
脳科学は人類に自分たち自身を理解する手がかりを与えてくれるだろう。自分たちのことだ、とても興味深い発見もこれからあるだろう。
ただ、そのとき私たちは冷静に情報を受け止めなければならない。これは科学全体にいえることだし、また科学以外にもいえることだ。話はちゃんと最後まで聞いて、自分の頭で考えなければならない。新聞の見出しを読むだけではなく、記事の中身も読むように。さもなければ、自らを滅ぼしかねない。
脳科学を通して、ヒトを科学するおもしろさと怖さを知ることができた。