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【映画企画】黒沢清監督インタビュー


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2.資金調達スキーム・脚本の話


―――黒沢監督のこれまでの製作の資金の集まり方や裁量というのも色々とあったと思いますが、「圧倒的に面白い映画を作りたい」という欲望を実現するにあたって、肌に合う、優れていると感じる形態はどのようなものでしたか?

難しいですね、それは。それが分かればまた先に進めるのですが。今のところ中々分かりません。実際、製作に具体的に携わる監督なり脚本家なりプロデューサーなりの才能と強い意志が大きいと思いますね。この辺があやふやだと、製作委員会方式(2)の良し悪しという議論になっていくのでしょうけれど。
「『圧倒的に面白い映画』って、ハリウッドのやり方で作るしかないのかしら」という気がします。ハリウッドは、「圧倒的な面白さ」を獲得すれば客がたくさん入る、という前提で全員がどうすればそれが実現できるかを目指している。それがちょっと間違うと、とんでもなく酷い映画になるのですが、「面白い映画を作ればお金が入るからどうすれば面白くなるか全員で考えようぜ」という一種の前提が共有されているのがハリウッドです。
一方、そうはなっていないから良いということもあります。例えば、フランスでは「儲かる」というのは二次的な結果であって、目指すのはあくまでも「面白さ」です。そこははっきりしていますね。だからこっちも、ただ面白い映画を作ろうとするだけでいい。
でも、実は面白いっていう基準はなかなかはっきりしないものです。それに比べて、儲かるとか客が入るというのは分かりやすい。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だってめちゃくちゃ儲かった訳ですし。そういう所に頼らないとなると、映画祭で賞を取るとか、批評家が絶賛するとかになる。フランスは「賞取ればいいってもんじゃないんだよね」と言いつつ、そちらに行きがちですね。
今の日本は、ある種の映画はやはり「お金が儲かるのが一番」として動いています。で、問題なのは、その為に別に面白くする必要はないということ。「じゃあ、監督はどうすればいいの」ということになってしまいます。皆で一丸となってある方向を向くような、ある種のハリウッド映画が実現してしまう圧倒的な面白さ、というのは難しい。

―――今の話を聞いていると、大手よりは『アカルイミライ』(3)などのように、アップリンク(4)のような所と組まれた方が、面白い映画というのは日本では達成しやすいと思うのですが、そこにはまた別の困難があったりするのですかね。

結局「何が面白いのか」というのが最大の問題なのですが、資本に関係なく『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のようなものを日本で目指すのはとても難しいと思っています。
その原因の一つはシナリオ、脚本を重視し過ぎるという形にあります。脚本に対する考え方が違う。ハリウッドの脚本がどう扱われているのかは知りませんが、やはり、脚本というのは映画が最初に立ち上がっていくときの一つの設計図です。脚本の作りから解釈の仕方から、ハリウッドでははっきりしていると思いますが、日本で言うとどうしても、脚本は文学の一つだという風に読まれてしまう。とにかく僕自身何十年も、日本で脚本を書いてさんざん言われたのが、「人間が描けていない」ということでした。「人間を描く」という言葉に僕は過剰反応してしまって、「止めてくれ」と(笑)。
「人間を描くこと」が映画として面白さにどうつながっているのかを示さなければいけない。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だって人間をそれなりに描いているわけですから、「人間をこういう方向で描けば、それなりに面白さにつながる」というちゃんとしたビジョンを示せば全く問題ないのですが、残念ながら日本ではそのように脚本を読むという習慣はないんです。こっちは色々書いているのに、「人間が良く分からん」で書き直し。それで「良く分かる」方向で書きなおした決定稿には最初にあった面白さが吹き飛んでいる、ということがよくある。それが問題というか、現代日本の映画作りの特徴だなあ、と。
しかし、もっと言うとこれは絶対的に悪いことではないのかもしれない。実際、圧倒的に面白いかは別として、近年の上質の日本映画からは、何やら「人間らしき何か」が、俳優の演技もあって、胸に迫るものとして伝わってこなくはない。それは僕が言ったハリウッド的な面白さとは別物であって、観に来たかなりの観客は「退屈」と言うのかもしれないけれど、これはこれで映画の一つの表現の方向だなと思う。そういう方向を目指すのは、それはそれで間違っていないのでしょうが、「圧倒的な面白さ」とは違うのでしょうし、ましてや、そのことと、多くの観客に受け入れられて、お金を儲けようとすることとは対極にあるかと思います。

―――その、「圧倒的な面白さ」を目指す方向とは違うのかもしれないが、日本の映画界にある「人間を描くべき」という脚本に対する考え方があるのだとして、そうした脚本観というのは世代によって変わってきたりしますか?

もう、完全に世代的なものだと思います。世代っていうと変なのかもしれませんが、時代。映画がこんな風に作られるようになったのは1960年代の後半からじゃないかな。例えば、黒澤明に対する評価は一番わかりやすいです。黒澤明(5)の映画は、アクション。彼は胸のすくような、はっと人を惹きつけるアクションに才能のある人です。一方で、俳優を使ってそれなりのことをやってもらうわけだから、「人間描写」がされている。僕は、黒澤明が一般大衆に受けたのは、やはり、はっと人目を引くアクションとスペクタクルがあり、それを過不足なく支える人間描写があったからだと思います。ただ、多分60年代のある時期から「いや、黒澤明の真髄は深い人間描写だ」と言われ、そこから「アクションはどうでも良い、彼はあれだけ人間を深く描けたから世界的な名声を得たのだ」という評価が広まっていった。その面も確かになくはないのですが、そっちがジャーナリスティックには大きく取り上げられ、いつの間にかアクションやスペクタクルは取るに足らないものと思われるようになってしまった。ある時期から、日本だけじゃないのですが、面白い映画を撮るだけじゃ映画産業が立ち行かなくなった。何とかして映画が生き残っていくにはどうしたらいいの、となった時に、シリーズものとかをただ撮っていくだけじゃ客が来なくなったという時に、ジャーナリズムも、撮っている側も「よく振り返ってみると、色々やって来たじゃないか。小津安二郎(6)を観てみろよ。何やら文学的な深い人間描写もあったよね」という言説が現れ始めた。70年代辺りにそうした傾向ははじまったのだと思います。そうした中で相米慎二(7)とかが生まれてきたので、それも悪いことではなかったと思いますが。
ハリウッドも同じ経緯を辿って行ったのだと思いますが、ハリウッドはもう少し賢く、というか強かに対応していった。それこそ『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だとか、スピルバーグ(8)なんかが出てきたのが80年代ですし、彼らの努力によってもう一度「圧倒的な面白さで商業的に成功しましょうよ」という方向に回帰していったのですが、日本ではそっちに向かえなかった。それでもお金がないと立ち行かないので、観客を動員しなければいけないのですが、そうなった時に一方では「日本映画には深い人間描写が必要でしょう」っていう決まり事ができていて、どうやってそれを面白さと一致させるのかは全然わからないままこんにちにいたっているという感じでしょうか。

―――日本には脚本至上主義がはびこっているのでしょうか。

至上主義、というのとも少し違うのですが、最初は割に健全に書くんですよ。「どうやったら面白くなるだろうか」「こうやったらいいのか」って。映画の設計図として。だけど、そうやって書いたものがいろいろな人に読まれていくうちに、「分からない」点が続出してくる。プロデューサー1人が分からない、というなら良いのですが、製作委員会の人全員が、それぞれ別の事柄について「分からない」と言ったりする。理想は、分からない人を一人一人連れてきて、脚本家やメインのプロデューサーが「よく読んでくださいよ、絶対面白いでしょ?こうやって、こんな風に進めるんです」とか「少々分からなくても面白いわけですから、一緒にやりましょうよ」と説得して、「なるほど、それは面白い」とか「この点だけは修正しましょう」とかいうやり取りの末、理想的な脚本が仕上がって、全員が同じ方向を向くこと。けど、実際はそういうことが行われない。「製作委員会の人がこういうことを言っていた」から直さざるを得ない。「お金出す人がこう言っているんだから、直しておいてよ」と。「ここが分からない」という人のためにもう一言加えたり。何が面白いのか確認し合う場がないまま、「言われたから直す」「直さないとお金が出ない、俳優が出ない」と脚本がどんどん変わっていく。そうしてでき上がった、これは色々な人の意見を反映して何度も直しました、という脚本は大概つまらない。色々な人が色々な方向を向いて意見を言ってくる。そうすると何が面白いのか分からないような代物が出来てくる。それを監督は「撮れ」と言われる。このような流れの中で出来てきた脚本を、時間がない中で、次々と映像化していっているのが、全部ではないですが、日本映画の良くある例ですね。その中から再び面白さを撮影現場の中で獲得する、というのが、監督や現場のプロデューサーに託されている。脚本ではこうなっているけれど、それを覆すというか、上手いことひねって面白いもの作ってくれるのではないか、と期待されるのが、今の監督たちの置かれた難しいところです。

―――根深い問題ですね。

しかし、そういう錯綜した状況下で、どんなへんてこりんな脚本が来ようが、奇妙なもの、正統な面白さとはずいぶん違った独特なものを、監督は作れるかもしれない。ハリウッド映画ではないけれども、変わった、ひょっとすると傑作が生まれるかもしれない、というのはあるわけで、さっき言った相米慎二なんかはそうやってきた人ですよね。相米さんの映画にはある種「目を見張る何か」がたしかにある。話なんかめちゃくちゃだけど、脚本がどうこうとか、そういうレベルじゃない、なにやら迫力がある。今で言うと三池崇史(9)さんの作品とか、どんな脚本でどう撮ったかはわからないけれども、「『何か凄い瞬間』がたしかにあるよな」と。それはそれで評価されうるし、客もそれで入ったり。夢はさっき言ったようにありますけど、現実は様々な人がいろいろと言ってくる脚本を元にして、その人達の気に入るように、あらゆる意見を取り入れた中で、したたかにやる面白さもあるなと、僕も実際にやっていて感じます。

―――先ほどの話で、ハリウッドに限らず、製作する人が同じ方向を向いているのが大事、という話があったと思うんですが、そういう座組ができる場というのは、一つには国際映画祭があると思うんですけど、他にも監督やプロデューサーが上手く出会って、じゃあ仕事をしようというコミュニケーションをできる場はありますか。

映画関係者が偶然出会う場というのは、映画祭以外ではあまりないですね。ただ知り合いが会いたいと言っている、というコネクションで出会うことはありますが、一説にはですよ、ある種の飲み屋、新宿ゴールデン街などに行くと必ず映画人が集まっていて、そこでいろんな出会いがあるという話は聞きますし、実際そういうことはあるんでしょうが、僕は行きませんのでわかりませんね。

―――社交の場があれば日本映画界は少しは良くなるのでしょうか。

そう単純ではないでしょう。少なくとも、同じ方向を向いている者どうしが出会わなければなりませんし。ただテレビ局には、昔の撮影所に似たある種の、「自分たちは同じだよね」という人が集まれる環境が残っているのかもしれません。僕はそこまでテレビ局関係には詳しくないのですが、モノによりますけど、テレビ関係の人が作った監督の名前もよく知らないけど、という映画で「結構面白い」というものはありますね。たとえば、去年観た日本映画の中で圧倒的に面白かったのは『ビリギャル』(10)。監督はテレビのディレクターなんですけど、『ビリギャル』は本当に素晴らしい。間違いなくベストワンでしょう。あと例えば『暗殺教室』(11)もなかなかのできでした。さっき言ったようにジャンルものをどのように撮るんだ、とか。面白く作れば観客をひきつけることができるはずだという、うらやましい確信とか、そういうものって昔の撮影所は、そういう雰囲気だったのかしら、と。テレビ局にそれがまだ残っているんですかね、捨てたものではないかもしれない。

―――今の話だと、製作委員会以外にも『岸辺の旅』(12)とかはフランス政府から助成をいただいてたと思うんですけど、政府と組むというやり方もあると思うんですがそれはそれでやっぱり難しいところがあるんですか?

国の助成金というのは素晴らしい制度ですが、まず脚本を書いて、それを何人かの委員に読んでもらって許可を得るという流れは、商業映画の製作委員会と似ています。ただ、一度助成金をいただきさえすれば、あとはかなり自由にこちらの思う面白さを目指せるので、その点はありがたいですね。でも、やはり最も神経質に行う作業は脚本作りです。

―――結局脚本なんですね。

そうです。過去の実績とか実現性の度合いとかもあるんですけど、脚本が何より重視されます。脚本を読んで「ここ直して」といちいちやり取りをするわけではないんですが、ハンコを押してもらえるような脚本を書かないとGOは出ません。こんな売れてる原作ですよとか、こんな人気俳優が出ますよとか、いくら吹聴してもダメです。

―――映画って脚本だけじゃなくて、撮った画がすごくいいというのもあると思うんですけど、それなのに脚本だけで決まっちゃうのが現実だと思うんです。撮ったものを見せて「これいいでしょ、お金頂戴」って判断してもらうのはできないんですかね。

なくはないと思うんですけど、ただ、しかしじゃあ作らなきゃいけないわけですね。すると僕らはなかなか「言うは易し」で。ハリウッドは、パイロット版というか、脚本だけだといまひとつわかりにくい場合、あるシーンだけ撮ってスポンサーに「こんな映画なんですよ」って5分間のパイロット版を見せて、「なるほどこれは面白そうだ」ってお金を出させるケースもあると聞きます。これは健全だと思いますよ。ある種の美味しいところを撮ってみて、お金をもらう、そういうシステムがあれば、それは良いよねえ……(笑)。

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(2)製作委員会方式とは、複数の会社が資金を出し合って一本の映画を製作する映画製作方式。各方面で協力体制を整えられ、ビジネス的なリスク回避も可能な一方で、黒沢監督が指摘するように、脚本が面白くなくなってしまう、というリスクも内在している。
(3)『アカルイミライ』(監督:黒沢清)は2003年公開の映画。独立映画配給会社・アップリンクが中心となって製作委員会が構成された。
(4)有限会社アップリンクは日本の映画会社。映画・映像ソフトの企画・製作・配給や、飲食店の運営、ワークショップなどその業務の幅は手広い。代表者は映画プロデューサーとしても活躍する浅井隆。
(5)黒澤明(くろさわ・あきら)は日本の映画監督。ダイナミックなアクションや、完璧主義に裏打ちされたセット・脚本の完成度で、世界的に評価が高い。代表作に『羅生門』『七人の侍』『影武者』『乱』。
(6)小津安二郎(おづ・やすじろう)は日本の映画監督。黒澤明と並び、日本の映画史上、国内外で最も評価されている監督の一人。テーマの多くは「市井に生きる人々の人間模様」であり、非常に透徹な人間描写や、独特のカメラポジションなど、彼の映画。代表作は『東京物語』『晩春』『麦秋』『非常線の女』。
(7)相米慎二(そうまい・しんじ)は日本の映画監督。アイドルの薬師丸ひろ子を主演にした『セーラー服と機関銃』など、典型的な大手資本による製作委員会方式で映画製作を行いながら、非常に強い作家性が作中に表出しており、日本映画史においてある種の特異点的な存在であると言える。代表作に『セーラー服と機関銃』『台風クラブ』『お引越し』。
(8)スティーヴン・スピルバーグは米国の映画監督。テレビ映画用に製作した『激突!』でデビュー以降、『ジョーズ』『E.T』『ジュラシックパーク』など話題作を続々と発表する。近年でも、プロデューサー業と兼任しながら精力的に映画製作を行っている。
(9)三池崇史(みいけ・たかし)は日本の映画監督。暴力描写は海外でも高い評価を受けており、特に『オーディション』は米国TIME誌が発表した「ホラー映画トップ25」に邦画から唯一選ばれたり、マリリン・マンソンから直にリメイク時の起用を依頼されるほど。代表作は『オーディション』『クローズZERO』『十三人の刺客』。
(10)『映画「ビリギャル」』はTBSテレビ・制作1部の土井裕泰氏が監督を務めた映画。原作は坪田信貴『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』。日本アカデミー賞・優秀主演女優賞(有村架純)など、国内の多くの賞を受賞した。
(11)『暗殺教室』(監督:羽住英一郎・原作:松井優征)は2015年公開の映画。同名の漫画が原作。興行収入27.7億円のヒットとなった。
(12)『岸辺の旅』(監督:黒沢清)は2015年公開の映画。黒沢監督の最新作。主演は浅野忠信・深津絵里。死んだ夫が突然家に帰ってきて、妻と共に自らの最期の時間を再び巡る旅に出る。第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で監督賞を受賞した。