KENBUNDEN > 立花隆の憲法集中講義 > 憲法班のゼミ生から

  


講演会に寄せて
東京大学 教養学部 1年 白川達朗  07.11.20

 僕は、この立花ゼミに今年の4月から入っている。ただ、正直夏学期は何かこれと言って集中して取り組んだ企画というものがない。なぜか。 それは、このゼミが恐ろしく理系偏重であるからだ。「サイ」を読んで頂ければ分かるが、完璧に理系なサイトであり、また今年の五月祭の時も、テーマは「核融合」であった。典型的に理系学問を疎かにした文系であるから、僕はいまだに核融合とはいったい何が起きているのかさっぱり分からないし、ゼミで理系の語る内容は、仮令日本語で語られても僕には聞いたことの無い外国語にしか聞こえないのだ。 だから、僕はどうせ駒場祭の企画も、何か科学的なシンポジウムをやるのだろうとばかり思っていた。憲法をゼミでやると決まったのが7月で、僕は何やらその責任者らきしモノになってしまったようであった。当初は、冬学期に駒場の教室を借りて、学生向けの連続講義を運営しようという話であった。ところが、暇な文系学生の2ヶ月以上に亘る夏休みが明け、10月にいきなり、駒場祭でやる講演会が憲法のことに決まってしまった。 さて、困った。しかも、講演内容はすぐに決まらず、タイトルさえ一顛末あり、やっと資料が体系だって作成されはじめたのは11月になってからという有様。 その分、いま僕はとても忙しく、かつ充実したゼミ生活を送れている。自分の専門、そして興味関心ある分野で、毎日毎日資料とあたり講演会用の資料を作成することは、自分のなかで混沌としていた憲法に関する知識を非常にクリアなものにしていく。その出自について知ることで、憲法に対する見方も随分変わったように思う。 憲法が、その歴史的な流れの中で作られていく系譜、そして終戦から昭和憲法制定までの短い間のストーリーは、とても魅力にあふれています(と、私は思うのです)。国の最高法規であり、我々が日本国で暮らしている中で、必ず知っているべきである「憲法」なのに、我々はその成立の系譜はおろか、しばし内容に関しても余りに無知で、無関心であると思います。そして、しばし改憲・護憲と声高に論ぜられていても、しかしその本当の論点が何なのかを、往々にして見失いがちです。この講演を通して、立花ゼミが考える「最低限憲法について知って頂きたいこと」が皆様に伝わることを願っております。 最後に一つ申し上げますと、講演はあまり難しい話をする訳ではなく、飽くまで憲法について、何も知らない状況で聞いても理解できるようになっています。資料も、講演を聞く際の水先案内となるよう、親切懇意に作ったと自負している次第。当日の皆様のお越しをお待ち申し上げております。勿論、当日聞けなかった方にも、動画配信などでフォローする予定。ぜひ見て頂いて、新たな発見を得て頂けたら幸甚です。



憲法企画によせて
東京大学 教養学部 1年 皆川秀洋  07.11.20

 僕は今まで憲法についてほとんどまったく考えてみることはなかった。もちろん身近なところで憲法に接する機会はいくらかあった。本屋には憲法9条関係の本がたくさん並んでいたし、テレビでは改憲・護憲をめぐっての討論番組がよく放送されていた。でも僕は、たぶん多くの高校生がそうであるように、憲法に関する問題に対してほとんど無関心だった。とにかく高校生のときは、今もだけど、もっと日常に密着した急を要する問題がほかにたくさんあって、そちらをどうにかするのに手一杯だった。だから憲法や政治の問題を考えることがなかったのかもしれない。それにもし時間が余っていたとしても、自分の好きなことをする時間のほうに費やされていたと思う。それは僕の通っていた高校では当たり前のことだったし、誰からも批判されることはなかった。
 しかし大学生活に入った途端、そんな状況は一変した。大学構内にはどこかあきらかに「憲法問題に興味を持てないようなのはバカだ」というような雰囲気が漂っていた。構内には憲法問題や今の政治体制に対する批判が書かれた巨大な立て看板がたくさん立っていたし、教室の机には毎時間うんざりするほど政治関係の集会やゼミのチラシが置かれていた。さらに、ゼミで飲み会みたいなのをやると、話題が右翼左翼とか政治思想の話題になったときに場が盛り上がった。それだけではない。そういう大学の雰囲気により憲法9条などの言葉に敏感になって始めて、この憲法9条をめぐる問題に対して並々ならぬ思いを抱いている人が僕の周りにはたくさんいるということがわかった。そういう状況に接する度に、自分がこれまでまったくの無関心でいたことに対してなにかしら自責の念みたいなものを感じた。そして本屋で憲法問題について書かれた雑誌があると少し手にとってみるようになった。
 しかしそれも少しという程度でそれほど時間をかけて読んでじっくり考えたわけではない。というのも僕は、大学生というのはもうすこし自由な時間がたくさんあるのだと思っていた。でも実際はそうではなかった。1年生は授業が週にだいたい18コマある。1コマが90分で、それぞれ1時間ずつの予習復習を前提にしてあるから、まともに予復習をした場合、一週間の総勉強時間を7で割って一日の平均勉強時間を出すと、

(1.5+1+1)×18÷7=9

9時間となる。休日も9時間勉強しなければいけないのだ。だから、というわけではないけど、憲法についてそれほど時間をかけてじっくり本を読んだり考えたりすることはなかった。それゆえときどき周囲との意識のギャップに愕然として落ち込むこともあった。立花先生に「あなたは知的に死んでいる」と言われる夢まで見た。
 しかし立花先生は今回の憲法企画を始めるにあたって学生たちにだいたい次のようなことを言った。
「もし私が学生のときに周りの年寄りに『お前たちは日露戦争のなんたるかを知らない』と言われたとしても、きっと無視していただろう。(だから安心してほしい。云々)」
これを聞いてほっと安心した。一気に肩の力が抜けるような気がした。他の憲法論者が持っているような、憲法問題に興味が持てない学生全般に対する批判的な態度は、立花先生の場合ゼロだった。僕は今のところ憲法企画にあまりコミットできていないと思うが、これからはできるだけ参加しようと思う。
 当日の講演を前もってあらすじだけ立花先生から聞いたのだが、100枚を超えるパワーポイントの中に立花先生の頭の中にある講演テーマがどっさり詰まっていた。日本国憲法が生まれるまでの様々な紆余曲折や、日本国憲法を作ったのはいったい誰なのかという疑問、日本側とアメリカ側の思惑の交錯など、いろいろな事実を聞いていくうちに日本国憲法に対してのぼんやりとしたイメージが出来上がってきた。今回の講演での立花先生のインプット・アウトプット比は、大変なものだと思う。立花先生は日本国憲法について調べていくうちに自分が知らなかったことがたくさんあることに気づき、それを恥じて、ものすごく勉強したらしい。その一部分をゼミのとき見たのだが、まさに怪物的な量だった。実際の講演では、それらの数えきれないほどの中から立花先生が拾い出してきたものがしっかりと組み立てられて語られるので、予想していたよりもはるかに興味のわく内容だった。敷居みたいなものもなくてわりとすぐに話の流れがつかめた。
 当日行こうかなと迷っている方、なんだか難しそうだと思っている方、これを機に憲法9条について考えてみようと思っている方など、当日は学生の作った資料集も配布します。ぜひお越し下さい。



憲法班立ち上げに寄せて
東京大学 教養学部 1年 関翔平  07.11.4

 あと一年で、有権者になる。気がついてみるともうそんな年齢なのに、僕はこれまで政治や法律、社会の仕組みについて意識的に学んだことが無かった。本はよく読むけれど小説や歴史書、哲学書などばかり読んでいた。そして振り返ってみると、そこには憲法の「け」の字も知らない自分がいた。象徴天皇制や言論その他の自由くらいなら聞いたことはある。しかし立花先生が次々と語ってゆく憲法とGHQの関係、ミズーリ号協定、本当の終戦日、大日本帝国憲法と日本国憲法とが構成の骨子においては共通している事など、次々と未知の事柄を知らされると、何も知らない自分が恥ずかしく思えたが、同時に興味がわいた。普段自分が使っていない部分の脳味噌が刺激されるのを感じた。「憲法」と黄門様の印籠のようにたった二文字で示され、そのあり方や重要性について語られても僕は何のことだか分からなくなってしまう。しかし「明治憲法と昭和憲法の違い」や「日本国憲法を作ったのはマッカーサーか、日本か」といったように語られるとき、僕は魅力を感じる。憲法という言葉が単なる崇高そうな術語としてではなくて、その当時の時代性、人間関係、国際関係を含んで輝きだすからだ。現在の国体の基礎根幹となっている日本国憲法自体が、それ以前の時代を学ぶことを通して相対化され、必ずしも絶対的なものではないと知ることだけでも刺激的だったが、それに加えて今なお改憲・護憲の論争が続けられている事実も、憲法がいまこのときの政治のあり方に深くかかわっている事を気づかせてくれた。何がいいか、どちらを取るのが正しいのかは僕には分からない。政治的な発言を続ける論者達だってそれは同じで、「どちらだったらより良いか」を自分で考えて信じているに他ならない。だが、この「自分で考える」というのは案外大切だ。時勢に従って二転三転するメディアの意見を鵜呑みにしたくはない。僕は憲法のあり方を自分なりに考えて、これからの政治の変節を眺めてみたいと思う。わが憲法班の中には、憲法の歴史性や他国との違いなどについて縦横無尽に語れる猛者もいる。彼らと議論し、様々な意見を聞く中で、きっと自分なりの判断力も磨かれるはずだ。憲法班始動、これからが楽しみである。



もめたタイトル
東京大学 教養学部 1年 栄田康孝  07.11.4

 秋も深まり、いよいよ憲法講義へ向けての話が本格化してきたある日のことだった。立花先生が書かれた今回の企画のタイトル案がゼミ内のメーリングリストを通じて回ってきた。 ・・・ん? こ、これがタイトル!?
 そこには衝撃的な言葉が書かれていた。載せちゃっていいのか心配だが、最終案とさほど変わらないので独断でその時のメールを引用する。

【2007年10月11日送信】 Title : 駒場祭パンフ用


立花さんの原稿送ります。タイトルがかなり刺激的です。ご意見をください。

(タイトル)
国体を護持せよ! 改憲派を獄中に放り込め!
(講演内容)
現代日本の国体は象徴天皇と9条だ。現代日本の国体を破壊しようなどという不届き者は、平成版治安維持法を作って断固取締まれ!◆改憲是々非々論の前に憲法について知っておくべきこと◆9条は現実離れの理想論か◆憲法改正のメリット・デメリット◆メーキング・オブ・昭和憲法◆憲法を作ったのは占領軍か日本人か◆9条が日本の経済的繁栄の土台を作った

 ・・・これにはゼミ生一同仰天したに違いない。それは、その後のメーリングリストに流れたほぼすべての意見が「こんなタイトルじゃ誰も来ない」とか「もう少し穏やかに・・・」といった類ものだったことからも容易に見て取れた。
 僕自身も「立花先生、なにかあったんだろうか!!」と、失礼ながら本気で心配してしまった。ちょっとどころか、かなり危ない雰囲気が漂っているんじゃ・・・? 既存の護憲派団体の主張のはるか上をいく、なんと強硬な主張であることか。
 だが、その時ゼミ生から出されたメールの中に、他の憲法関連団体の宣伝文の例を引用して紹介しているものがあった。そこには、「今こそ憲法を勉強しよう!」とか「日本の宝である憲法九条を守ろう」の類の、どれも似たり寄ったりで、要するに「ありきたり」なタイトルが連ねられていた。そんな他団体のタイトルを見ながら、僕は立花先生のタイトルがいかに異端児であるかを再認識したのだが、同時にぶっちゃけすぎていて一種の気持ちよさを感じ始めた。それは、テレビで芸人がぶっちゃけたときに感じる、あの心地よさ・痛快さだった。
 その瞬間、「これはこのまま思い切ってやってみても面白いかも」と思えてきて、このタイトルに「全面的に賛成」という意見を出した。だが、その後続く意見もまた、どれもこれも否定的なものばかりで、最後は無難なタイトルに落ち着くのかと思われた。(結局、当時このタイトルに賛成意見を送ったのは後にも先にも僕だけだったようだ・・・汗。そんな僕も、よりソフトなタイトルに変わる分には反対しないつもりだった。)
 ところが、次のゼミで立花先生が一言。 「このタイトルはゆずれない」
 こうして、ゼミ内の多数の意見を押し切る形で、このタイトルが日の目を見ることとなったのである。

 ・・・だが、障壁はそれだけに収まらなかった。ちょうどゼミの最中に、僕の携帯に電話がかかってきた。出てみると駒場祭委員会だという。どうしたんですか、と聞くと、パンフレットに載せるタイトルが政治的なので差し替えてくれ、と言う。ちょうどその場に立花先生がいらっしゃったので、協議の末、パンフレット用の原稿は委員会側に譲歩して差し替えることになった。こうして、今回のサブタイトル「国体を護持せよ! 改憲派を獄中に放り込め!」は、ゼミで自由に制作できるコンテンツ限定のタイトルとして落ち着いたわけである。
 これほどまでして、どうして立花さんはこのタイトルを譲らなかったのか。それは、当日の講義で明らかになるであろう。タイトルを見てちょっと怖いと思ってしまったあなたも、講義には安心してお越しください m(__)m




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